2019/04/21

ネパールへの旅—ハリオン 8—

お祭りというのは、どこの国や地域でも似たような空気がながれているものかもしれない。

ハリオンでのフェスティバルの写真を見ていて、小池昌代の随筆中のくだり、深川の水掛け祭り*での、多感で危うい思春期のころの記述が、思い出された。

この日はだれもが、ソワソワ、ワクワクといった非日常的で特別な感情を持っても良い日—なのだろう。


*小池昌代が育った江戸、深川に古くから伝わる夏祭り。











ネパールへの旅—ハリオン 7—

この地域のフェスティバルの会場の中では
夕方くらいから様々な催しが行われ、子どもたちのみならず
若者や大人にとっても、それは楽しいハレの日になっていることがうかがえる。








2019/04/18

ネパールへの旅—ハリオン 6—

彼女がわたしたちにチヤを出してくれ、サロージさんと話しこんでいる。

わたしたちは家の前のちょっとしたスペースで、この辺りの土地でしか見られないような果物の実を見てあれは何だろう、などと話をしながら風に吹かれていた。
彼女は時折訪れるお客さんに対応したり、わたしたちのためにサトウキビをお土産にと収穫し、運びやすいように加工してくれたりと、動き続けている。

フィルムを交換している姿を見て、サロージさんが、なぜフィルムで撮るのかとわたしに聞いてきた。
「これはモノクロフィルムで、現像からプリントまで全部自宅で出来て効率が良いから、そして大きくプリントを伸ばした時、とても美しいから」などと説明していると、彼女がじっと好奇の目でわたしを見つめ、結婚しているのかと聞いてきた。
「Yes」と答え、今度はわたしが彼女の歳を聞いた。
そしてわたしたちはほとんど同年代だということが分かった。

同じ女性として、わたしの生き方が不思議な感じがするということは、容易に想像できる。

家族のため、子どものため、人のためにずっと働く女性―そしてネパールの女性は大方そうなのだろう。。。





 


ネパールへの旅―ハリオン 5—


時折雨の降りしきる中、サロージさん運転のジープは次の集落へ。
サロージさんのプロジェクトで10年前に知り合った
もと生徒の女性の住む家へと向かう。

そこは立派な家々から成る集落で(その家は彼女の夫が友人たちと何人かで建てたとのこと)
彼女が小売店を営み、家、畑、納屋などがある、穏やかでのどかな一帯だった。












2019/04/14

ネパールへの旅-ハリオン 4-


コミュニティハウスを出て、集落をぐるっとまわり、家々や、わたしたちを出迎えてくれたひとびとを眺めながら歩く。

こどもたちは、海外のメーカーの衣類を身に着けていて、ひとめでセカンドハンドの寄付の品という事が想像できた。
そして裸足の子がほとんどだった。

しかし、ものを持たないひとびとが貧しいとは限らないと、今、本当に思う―
それは子どもたちの表情が如実に物語っているためで
こんなにも感じの良い好ましさと、謙虚さと、好奇心に満ちあふれているからーだ。



 
 
 

ネパールへの旅―ハリオン 3-



100パーセント非識字のひとびとの住む集落での滞在は、ほんの僅か20分くらいだったと思う。

コミュニティハウスの中でサロージさんが子供たちに何か話しかけている時間がほとんどで、
その間わたしは必死にシャッターを押した。
(開放値で、シャッタースピードが良くて30分の1という条件の悪さだったにも関わらず・・・)

おそらく、もうこんな景色ーひとびと、状況には出会えないという直感から・・・だったと思う。


いま、できてきた写真を見てみると、なぜこんな見ず知らずの人間に対して
警戒心のない澄んだ表情ができるのだろうか、ということにはっとして気が付いている。
もちろん、彼らのサロージさんへの信頼の証なのだろうが、それにしても・・・・・。










 
 
 
  

ネパールへの旅―ハリオン 2―

ハリオンでの二日目の朝、激しいスコールとともに、雹まで降った。
空から落ちてきた雹は、手に取ると数ミリから一センチまでになるほどの大きさで、こんな経験は後にも先にも一度きり、そんな気がした。

「乾季の今、雨でさえ珍しいのに加えて雹まで降るなんて、何てこと・・・!」と
同行の小川さんは幾度も言った。

100%非識字のひとびとの住む集落へ、サロージさんが車で案内してくれる。

そこには、床は土、壁は木と土、屋根は藁とわずかなトタンで作った家が集落を形成していた。

ジャングルを切り開いて作ったようなところ、
その集落の中心部にサロージさんの活動によって建てられた
コミュニティハウスがあり、勉強を教えたり、図書館のような目的で使うとのこと。
といっても、本はどこにも見当たらない)



 


2019/04/11

ネパールへの旅―ハリオン 1―

ハリオンに着いたのは2月8日の15時過ぎ。
宿泊予定のホテルの部屋に通され、荷物を置き、隣の建物の1階のカフェに行くとSaroj(サロージ)さんがわたしたちを待っていた。

ここはインド国境まで20キロほどの街で、インドからの物資輸送車などがひっきりなしに行き交い、そのホテルは幹線道路に面していた。

カトマンドゥとは明らかに違う気候、植生、それにひとびとの顔だち。
ボワンと膨張した空気が、南国であることを伝えてくる。







2019/04/08

ネパールへの旅-Introduction-

ちょうど2ヶ月前、南ネパールのハリオンに居た。
2ヶ月・・・というとひとは多くのことを忘れてしまうけれど、彼らはわたしのことを憶えていてくれるだろうか。

ジープの屋根で揺られる中、写真を撮ってほしいと言われて撮った。
けれどもこれはすぐに見られるデジタルカメラではない。
そのことで彼にがっかりされた。

「ごめんね、」と思いながらも
こうしてフィルムを日本に持ち帰り、現像を終え、プリントに着手しようとしている。

その時間は、自身の記憶や精神の沼で発酵に要する最短とも思える、決して省くことのできない貴重なものなのだ。

ネパールにいる間、ざらざらとした現実を生きている様な気持ちだった。
物事の表面がささくれ、嫌でも記憶に引っ掛かってくるような日々だった。

一方で、わたしが写真を通して見たネパールは、どんなものだったのだろうか。










2019/03/22

上田達写真展のご案内

上田達写真展(2019年4/27~5/30・ニュースアートギャラリーウォーク)

企画:上田敦子

『PYRAMID SONGS』アンコール遺跡をゆく 上田達写真集(青山ライフ出版/2016)、『紫の空』上田敦子・文 上田達・写真(田端書店/2017)
2冊の写真集に続き、上田達写真展が開催されます。

チベット、ネパール、モロッコ、カンボジアなど、アジアを旅した若者がいました。
彼は旅先で写真を撮ることに貪欲に取り組んでいました。

彼の遺した写真をご両親がパソコンから見つけ、
それらの写真が世の中に出るきっかけになりました。

写真の中でしか知る事のない達さん―その目をなぞるように、この2月わたしもネパールのマイディ村を歩いていました。道端のブランコや彼がファームステイした農家の佇まい、山羊の小屋など。そこには、2010年に上田達さんが撮ったままの村のフウケイと暮らしがありました。

今回の展示は、上田敦子さんが達さんの写真に、ことばを響かせていきます。
どんな歌を聴かせてくれるのでしょうか、楽しみです。

上田達写真展:2019年4月27日(土)~5月30日(木) 無休
                         平日 9:00-19:00
      土日祝 10:00-18:00
                         ニュースアートギャラリーウォーク
                       (汐留メディアタワー3F)

          
           

 

2019/02/28

ネパールへの旅を終えて

ネパールに来て6日目に、初めてヒマラヤ山脈を見ることができた。
ヒマラヤはネパール語で「万年雪の山」という意味だそうだ。1年を通して雪が解けることはない。
日本の最高峰である富士山を始め日本アルプスでは、夏には山肌の雪は多少残るもののほぼ解けるので、やはりヒマラヤは標高とスケールの桁が違うという事をそれだけでも知らしめられる。
その峰々は、思わずスプーンですくって食べてしまいたくなるような丸みを帯びながらも尖った氷と雪から成り、ひとつとして同じ形はなく、この景色をずっと見ていたいと思った。
ヒマラヤ山脈のその姿は雄麗で厳か―アイヌの人はかつて大雪山のことをカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)と呼んだが、ヒマラヤもまた、そんな親しみさえ感じさせてくれるような雰囲気を漂わせていた。


ネパールで過ごした3週間―ここでは(魂が)流れている―と感じた。
生きることから死ぬことに向かって初めから人間は川のように流れているのだろう、それをネパールの人は体現しているようなところがあると思われた。

多くの民族や宗教、慣習などが入り混じる中、厳しい自然もそこにはある。それに逆らわず、受け入れて淡々と生きているように思えた。
また、病気になると、みな医者に行くより祈祷に行くと聞いたことも関係しているのかもしれない。
そしてこの国独特のやり方、ルールというものも幾つか経験し、それが更にこの感触を強いものにしていった。

帰国直後、ハリオンの孤児院の子が怪我をして、カトマンドゥの病院まで連れて来られたという話を知った。
何ということだ、と思った。
若い命―その流れを終わりにしてほしくなかった。

わたしには彼らが流れていることが見える。
彼らは、わたしが流れているように見えるのだろうか?

出発前、旅行書の中で見つけた「ネパールへは、健康な身体と柔らかな精神を持って」ということばがわたしの中で引っ掛かっていた。
しかし、本当にそのことば通りだった。

その通りにすれば、思いがけない体験や気づきが待っている、ネパールはそんな国だった。


この旅ではたくさんの方が私を助け、導いてくれた。
特に小川博子さん、ロクさんご夫妻の多大な協力と助力にはこころから感謝いたします。


このブログ「ネパールへの旅」に掲載されています写真はスマートフォンで撮ったもので、挿絵のように見ていただけたら幸いです。実際の撮影データは下記の通りです)

撮影      メインカメラ―マミヤ7
      サブカメラ―マミヤRB67
      
       フィルム―Kodak 400TX 120
                                    BLACK&WHITE NEGATIVE FILM.







2019/02/27

ネパールへの旅

カトマンドゥを後にして、


カトマンドゥ、トリブヴァン国際空港からソウル、インチョン空港へ。乗継のため待つこと数時間。
インチョン空港は、超近代的な空港だ。
その豪華絢爛たる様は世界随一と思われる。
 
水の心配なし、トイレの心配なし(紙の有無、流すと詰まるという心配)、寒さの心配なし、停電の心配なし、素敵なカフェにはいつでもコーヒーの良い香りが漂い、フリーの仮眠用ベッドまで備えられていることに、思わず安堵のため息が出た。

しかしソウルで、わたしは何か大きな欠落を感じていた。

ネパールでの日々、ペットボトルの水をあれほど大事にしたことはなかった3週間だった。
飲み水にするほか、歯を磨いたりうがいする時のために、少しづつちょびちょびと使った。
間違っても、真夜中に無くなってしまっては大変だったから。

一回一回の食事は、時に珍しく思い、興味を持って有難く頂き、美味しくても、そうでなくても完食した。
バスが時間通り発車しなくても、大幅に遅れても、出発してくれたら良しとした。

すべてが感謝する気持ちの日々の連続だったのかもしれない。

そしてもっとも感謝したいのは、ネパールの人々に対してだ。

ネパールで人々の写真を撮る事は、これまでになくスムーズだった。
写真を撮られることで、何か不正利用されたり、悪用される、というイメージや思考回路はこの国の人々はまったく持ち合わせていないようだ。

カメラを持った外国人が歩いていることに対して興味深くしげしげと見つめたり、近づいてきたり、顔を背けたり、照れたり、その反応が人によって様々だった。
人の反応を見ることが、この旅の楽しみのひとつとなっていた。

そして日本でも恐らくこういった時代があった筈だと、過去の日本にタイムスリップしたような気持ちでひとりに感慨にふけていた。




 
 
 





ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々~5~


ネパールの首都カトマンドゥは、リングロードという環状道路に取り囲まれ、それはおよそ南北に7,8キロ、東西に5,6キロ四方で広がっている。
そして市街地はその真ん中のほんの2,3キロ四方に密集している。
わたしの撮影は、カトマンドゥ中心部からリングロードへ、北、東、西へと向けられていった。(南部はPATAN(パタン))
西へ向かった日、チャトラパティチョークを北東へ折れると、ぐっと庶民的な空気に変わっていく。
タクシーや店の呼び込みなど、観光地で声を掛けてくるような客引はパタリとなくなる。
ヴィシュヌマティ川を越えたあたりを歩く。舗装道路は消え、黄土色の地面からは常に土埃が立ち上っている。
この辺りは学校が密集しているのか、様々な制服を着た年齢もバラバラな子供たちがワラワラと歩いている。
朝7時位から午前中いっぱい、学生の姿は途切れることなく見られる。
学校の始まる時間がまちまちなのか遅刻する生徒が多いのか、お昼近くなっても別に慌てた様子はない。

カトマンドゥで人の写真を撮るときに、特に学生と、道端や店の前でたむろしている中年の男性たちが面白いとわたしは感じていた。
何故だかよく分からないのだが、学生は生き生きとしているし、カトマンドゥの中年男性には、何やら時間的な余裕が十分にあるように見うけられ、その力の抜けた感じが良かった。

それと、バスを待っている人々の姿は印象的だった。
ネパールでは車の移動が主な交通手段で、それ以外は飛行機になってしまう。
狭い国土に高低差の激しい地形のネパールには、鉄道がほとんどない。(インド国境近くの平野部に行くと、少しはあるのだが・・・)
そのため人々を乗せ様々な方角へと向かうバス乗り場はいつもごった返していて、バスを待つ人々の所在無い頼りない表情が何とも言えず、その前を通り過ぎる時いつも心惹かれるのだった。
















2019/02/21

ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々 ~4~
Jhochhen Tole(ジョッチェン界隈)
                別名Freak St.

カトマンドゥにある世界遺産のひとつ、Durbar Square(ダルバール広場)の南に隣接するJhochhen Tole(ジョッチェン通り)界隈は、60年代、ヒッピー風の旅人がたむろしていたという所で、そのあたりの長期滞在者が多く、その名残を残していることを書籍で知り、どんなところなのか興味がわいた。
大麻天国(ネパールで大麻が非合法化された1972年まで)だったころのカトマンドゥは、おそらく仏映画「カトマンドゥの恋人」(1969年)を観るとその雰囲気が良く分かるかもしれない。

とっぽいー今でもこのことばを使うのなら、この表現がジョッチェン界隈にはしっくりくる。
そしてわたしが滞在している宿のあるタメル地区とは違い、子供だましの土産物屋などは見当たらない。
長期滞在するには丁度良い場所なのだと思った。
埃や煤をかぶったイギリス風建築ネパール判といった建物が密集し、うらぶれた感じの魅力的な路地が形成されていた。
2015年4月の、ネパール大地震の際に崩れた煉瓦などが山積みになっていて、この辺りはあまり補修が進んでいないようだ。
それでも良く見ると、煉瓦の壁を埋め直した跡がたくさんあり、まだその繋ぎ目の石灰が生々しく鈍い光を放っていた。

高い建物同士が迫ることで作り出される閉鎖的な空間はどこか怪しげで、秘密の隠れ家にぴったりという雰囲気を醸し出している。

「大型カメラで三脚を据えて撮るなら、ここだ」と、わたしは直感した。
あるいは映画を撮るのも良いかもしれない。
よくある埃を被ったような町の、味のある大道具セットが、ここではそのまま使えるからだ。

途中、先が行き止まりなのか通り抜けできるのかわからず、向こう側にいたおじさんにその事をジェスチャーで合図して聞くと「Come」と言って、先に歩き始めた。
地震で崩れた建物後の広い空地を通り抜け、その先に道はちゃんとあった。















2019/02/20

ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々~3~

ー複雑な地形と民族から成る、ネパールー
ネパールの国土は北海道の2倍弱、ヒマラヤ山脈を背にする高山と、インド平原に連なる低地からなる。
多くの民族と言語があり、その数は24とも96とも100とも、参考文献によって書いてあることが違い、わたしはまだその辺りのことをよく理解できていない。
ネパール語を共通語とし、現在学校では子どもたちに英語で他の科目を教える授業がメインとなっているようだ。
それでは現代の子供たちは、学校では英語を、友達との会話はネパール語を、家族や親族血縁とは自分の民族のことばで話すのだろうか・・・・・?

なぜこんな事を記したかといえば、
カトマンドゥに居ると、実に多種多様な顔立ちの人と日々すれ違うからだ。
日本人と言っても遜色のないようなチベット、モンゴル系の顔立ちの人もよく見るし、インド系はもちろん、ペルシャ系の顔立ちから、東ヨーロッパ系の顔立ちまで、広すぎて、複雑すぎて、民族何たるかが、よく掴めないでいる。
また、1962年に廃止されたカースト制度は、いまだに根強く残っていると言われている。
幼い頃から親や地域から教えられた価値観を、間違っていると感じても、それを自分の中から剥ぎ取ることはなかなか容易なことではないはずだ。

しかし今回わたしを南ネパールのハリオンに案内してくださった3人は、それを飛び越えてきた人たちだった。

このような複雑な背景を持った国、ネパールで
わたしが本当に見たり、感じたいのは、こういう人たちのことーその信念に基づく行動と、それが人や社会に与える影響ーそのことについてなのだと思った。
それは大阪、西成に居たときも同じだ。
何かわたしが直接社会福祉活動等に参加をするわけではないのだが、彼らのやっていることを見たり、彼らと話をすることによって、精神に入りこんでくるほんの小さな、ささやかな何かーそれが細い糸でどこかの回路に繋がっていて(それがどこでどうなってやって来るのかは分からないのだけれど)
わたしが写真を撮ることをさせてくれているような気がするのだ。








 





2019/02/19

ネパールへの旅


カトマンドゥでの日々~2~

ネパールの学校は公立校も私立校もあり、
みな制服(ジャージを制服にしている学校も)を着ているので、学校に行っていると、学生ということが一目瞭然だ。

女子は100%といって良いだろうか、髪を腰位まで長く伸ばしている。お下げ髪で白いリボンも決まりのひとつ、というような学校もある。
それから、男女共に上着とスラックスにネクタイという学校もあり、このスタイルの女子が向こうから歩いて来ると、わたしはふわりと春の風が吹いてきたような気持ちになる。

その一方、10歳前後でも学校に行かず労働をしている子供たちもいる。
ハリオンへ行く道すがら、昼食のために立ち寄った山間の食堂で給仕をする男の子*の目の温度の低さが忘れられない。
あまりに印象的な佇まいだったので、写真を撮らせてもらった。
静止してこちらを見てくれたが、決して笑うことはなかった。

カトマンドゥでも、荷物を運んだり、野菜や果物を売り歩いたり。下町の方に行くと、職人として一人前に工場などで働いている少年の姿を頻繁に目にする。
こちらを見る彼の、少年の身体をした大人のような表情ーいや決して大人と同じではない筈なのだが・・・・・
それにわたしはいつも違和感を覚えると同時に、写真なんかを撮っているもうひとりの自分もいるのだ。

*ネパールでは、給仕は男性の仕事と決まっているようです。