2019/10/16

写真のこと、そして日々。(6)


永遠のごとく止まっていると感じた世界が流れ出した。
それも勢いく・・・・・。
そして、わたしは見事にそれに流されている、、ような気がする。
それは自らが望んで流されているのか、本当に流れがきて飲み込まれているのか、それがよくわからないでいる。

しかし流されることを望んでいる部分は確かにあるのだろうと、薄々感じてはいる。

いつも辿り着く思考の先ーそれは写真とのこと。
ー写真と自身のカンケイ、そして人とのカンケイー
わたしのテーマと考えるべき問題は、そのことに尽きるのだろうと思った。





                                                                                                        Osaka,2018

2019/10/07

写真のこと、そして日々。(5)


わたしが生まれ育った故郷は、第一次産業とそれ以外の半々の暮らしが今も続いている。
東京のように貨幣経済が中心ではないので、人足の返礼として、自ら育てた食物が返ってくる。

そのことが、東京生活何十年も経たわたしには、甚だ新鮮なことであった。

東京だと、とても自分では買えないような立派なブドウやリンゴ、それに好物の枝豆は房ごともらえ、初めてなつめの実を口にし、その奇妙な食感にわたしは病みつきになった。


そしてよくよく考えてみると、都市というのは何と不可思議で特殊な区域なのだろう・・・、と改めて驚嘆する。

複雑に絡み合ったコードのような街と人。
それらが織りなす無限のドラマ。それは光を、そして闇をも生み出し続けている場所なのではないだろうか。
そしてひとと街とがダンスをしているその行先は、だれにも分からない・・・・・。

その一筋縄にはいかない、何とも名状しがたい都市の作用のある一部分に惹かれ、ずっとわたしは街の写真を撮ってきたのかな、と思う。

そしてそれが、故郷に帰り、また東京に戻る度にジワジワと浮かび上がってきてくれることは、何とも不思議である。
山の頂上で視界が開けたときのようなーそんな単純な話ではないのだけれど、何か自分に必要な感覚のような気がしている。




                                                                                                                                   Osaka,2018

2019/09/26

写真のこと、そして日々。(4)



鳥が死んでいた。
少し大きめの鳥、ムクドリかな?
離れの2階の南側のガラス戸から下を見ると
ちょうど一階の縁側の上に備え付けた雨避けと採光のためのガラスの廂の上に。
隣の林の木々の枝が伸びてきて、その大きな窓を半分近くまで覆い隠す格好になっていた。

獲物として捕獲し、仮置きされてるというのは、ひと目見てわかるような置かれ方だった。
鳥はこんな風にこんな所では死なないから。
それを偶然わたしは見てしまった、という場面だった。
2~3ヶ月後、その部屋のちょうど真裏に当たる窓下の一階の屋根の上に、小さな鳥がうずくまっているのを見た。
弱っているのか、休んでいるのか、死んでいるのか、よくわからなかった。
しかし決して触ったり手をだしてはいけないことー自然界のサイクルは死を含めたものだということが、幼い頃からの経験から身に付いていた。

自然の中で動物の死を目撃したとき、地を這う蔦の根の頑強さを目の当たりにしたとき、ハクビシン、カラス、鳥たち、蜂や蜘蛛や蚊などとの遭遇、そして彼らの底なしの生きることへの希求を見たときに、ちっぽけな存在であるわたしを感じ、そこに包まれている感覚がぐわっと襲ってくるのだった。
緑の中に埋もれるように暮らしていると、一種包まれたような感触を意識するようになったのは、確かここ最近のことだと思う。

都市を撮影するときに、わたしはそんな感覚を頼りに撮っていたことを、今はっとして思い出している。

                                                                                     Osaka,2018                                                                                                                                                                                                                                                                                                    


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2019/09/10

「ロバート・フランク展―もう一度、写真の話をしないか―」より。


この展示会場に入る前に、わたしはメモ帳と鉛筆をまず用意した。
1992年、ロバート・フランクはジム・ジャームッシュの行ったインタビュ―*の中で、「書くこと」について、こんなことを言っている。
「上手に書けたためしがないんだ。二、三の文章を除いてはね、それは・・・・・書くことは骨折りでね、私に書けるのはまったく個人的な手紙、心の内にある個人的なことを書く場合だけなんだ。(略)
論理的に組み立てることは私にはとてつもない難問なんだ、つまり、骨組みを建てることが。
私の心は自制がきかないから。私の心には筋道がない、直感だけなんだ。論理的じゃない。だからかじ取りをしてくれる人と仕事しなくてはならないんだ。個人的な手紙ならうまく書けるが、それ以外は本当に書きたいと思ったことはない。」
しかしだからこそ、フランクの仕事についてメモをする重要性をわたしは感じていたのだと思う。
年表や重要事項、写真から発せられるメッセージや感触など、書きとめておきたいと強く感じた。
写真とことばの関係に対して、真摯に、正直に、向き合っている作家であり、その関係性や自身の写真について、とてもよく理解していると感じたから・・・・・。

                  ―ロバート・フランクのいくつかの印象的なことばと、出来事―


「アーティストとしてはときに激怒することが必要、
 自分の直感に従い、自分のやり方で撮り、譲歩しない。
 私はいかにも『ライフ』的な物語は作らない。
   
 そういうことは嫌いだし、起承転結のある物語に
 立ち向かいそうではない何かを生み出すために努力する、
 と思うことができた

『ライフ』紙の募った写真コンクールで2位になったときのフランクの言葉より

「陰気な人々と暗い出来事
 穏やかな人々と心安らぐ場所
 そして、人々が触れ合う物事

 それが、私の写真で見せたいこと。」

・1950年フランクはN.Yの11丁目53番地に移り住む。

「市場への無関心と、彼ら自身が成功と捉えることへの献身」
という10丁目の画家たちの精神に深く共感し、かれらと精神的な交流をもち、またポートレートを残した。
 

*1992年9月号の『Switch』特集/ロバート・フランクのために、1992年6月にマンハッタンの南端、バワリー街のジム・ジャームッシュのロフトで行われたもの。


                                                                                                                                Osaka,2018

2019/09/08

ロバート・フランク展―もう一度、写真の話をしないか―


まずはロバート・フランクに謝罪を。
このところわたし自身が写真を考える際に大きなウエイトを占める鈴木清の写真と比べて、どうあっても西洋の構造主義、構成主義を壊したとしても、アジアの無秩序的な混沌とその破滅の様には到底叶わないと先入観で思ってたが、その考えを撤回します。
(少なくとも今日の展示を観る限りでは・・・)

ロバート・フランク氏の23歳から38歳までの15年間の作品がまとめられた展覧会を、清里フォトアートミュージアム*で観た。
「15年間、アメリカ、南米、ヨーロッパを旅し、模索と挑戦を重ねた若き写真家の歩みと眼差しを辿ります」と、チラシの紹介文の最後は締めくくられている。

目にしたことがある写真もあるのだが、この展示では初めて取り上げられるようなものの方が多かったような印象がわたしにはあった。
写真家にとっての新しい世界への感触と初々しい眼差し・・・・・
その中にあっても、安定を良しとしない、常に模索を続けるロバート・フランクの姿が〝目″の記憶ではなく、別のどこかに宿った。

帰宅した後、ロバート・フランクの写真の絵面(えづら)を、殆ど落としてきてしまったことに気づいた。
どんな写真展だったか、気になった写真や好きな写真は頭の中で思い出しては、そのことを考えたりするものだが、
絵面が殆ど浮かんでこないということはどういうことなのか?

それほど記憶力は悪くない筈なのだが、あんなに静かな環境で穏やかにゆっくりと鑑賞したのに・・・。

展示会場内の作品の下のキャプションの文章の中に、フランクの写真行為に対して「直感」という言葉が繰り返し当てられていたのが印象的だった。
ロバートフランクは、「直感の写真家」ということに、どうもなっているらしい。

しかし直感というのは、子どもでも動物でも持っているものだ。
むしろ子供や動物たちの方がそれを兼ね備え、能力はずっと高いのではないだろうか。

ロバート・フランクの「直感」は、経験があってこそ、のものに違いない。
そして、フランクが(というか多くの写真家も直感で撮っているのだが)直感の写真家だとしても、
フランクは「直感的に外している」とわたしは言い換えたいと思う。
構図や全体感がうまくおさまり、決まり切ったような写真は撮らないし、選ばない。
へんてこりんな空虚感、抜け殻のような後味、緩められたネジ・・・言い切るような強さや、安定した画面への姿勢が、どこにもない。

世の中の片隅にあるのも、片寄り、ズレのようなもの、襞、余白などを、常に画面上に出し続けている。
そしてそれがこの展示の根底に流れているとわたしは感じた。

彼が見せたいものは、画面上の秩序とか整えられたもの、或いは目をひくようなものではない、ということが分かってきた。
それが、わたしが今日観たフランクの写真を思い出せない要因のひとつでもあるのかもしれない。

そして「自身のこころの震えに反応している写真家」と、ひとつ補足をしたいと思う。

*清里フォトアートミュージアム
 ロバート・フランク展    もう一度、写真の話をしないか。       6/29-9/23,2019


                                                                                                                 Osaka,2018










2019/09/02

写真のこと、そして日々。(3)


そのひとつの話として、何年も、何軒もの家を直してきたアーティスト夫婦の友人がいる。
フランスでの話なので、あちらは新築の家の方が少なく、家は直して使うものだし、地震もないから、耐震とかそういうことはあまり考えなくて良い。だから日本とは条件も環境もまるで違う。

それでも、自分たちのパリのアトリエを何年もかけて改装し、田舎に買った家を改装し、別の地方都市に買った小さな家も、住みながら改装し、遂に見つけた理想の場所に立つ家とアトリエを含む大きな家を改装し、現在はそこに住んでいる。

丁寧に生きること、暮らすこと。
改装を早く終わらせなくちゃ、と、焦ったり慌てたり決してしない。
夫婦は画家と彫刻家なのでお互いに拘りが強く、白い壁にフックをつけるかつけないかで、何日も意見を主張し合う。

防寒のため、床下に羊の毛をフワフワに解したものを入れた話や、(建築の工法として、とても贅沢なことらしい)
売るために改装した家なのに愛着が湧いて、それを躊躇しているという話もいつか聞いた。
一軒の小さな家や小屋を買い取って、早くても2,3年。
長ければ数年、工期が終わるまでに年月を要したのではないだろうか・・・。

性格的に、わたしはそんなに気長にはできない。
それでも、彼らのやり方や、生きることへのエッセンスがずっと深くまで自分の中に浸透してきていることに、同じような局面に立つ今、感じているのだから、不思議なことなのだ。



                                                                                                     Osaka,2018

2019/09/01

写真のこと、そして日々。(2)



随分時間が経過したな、と思う。

今頃になって、30代後半から40代にかけて、大した目的意識もなく写真を撮って旅をしてきた経験が、わたしの中に深く積もり、腐葉土となり、自身を形成する糧となっていたことを知る事となる。

いま現在、さまざまな決断をする価値基準が、そのあたりにあることを実感として感じる。

その時は何も思わないのだ。
ただじっと見ている、聞いている、感じている。
出来事やフウケイの全てを受け入れているだけで、何の判断もしない、たそがれる一本の樹のように佇んでいた。

出来事があった、そのことすら忘れかけていたのだけれど、
こういう形で現れてくることは、思いもよらないことだった。




                                                                                                                       Osaka,2018

写真のこと、そして日々。


写真について考えることを、少しの間ストップした。
他に神経を集中しなければならないことがあって、やむを得ない事情でのことだった。

東京に戻り、また写真に戻ってきて、ひとと話し、ひとの写真を観始めるー
するとことばが、イメージが、コトリと静かに底の方から浮かび上がってきてくれる。
ポツポツとした気泡が水面に静かに現れるかのように、それらは少しずつ来てくれるのだ。

懐かしいけれど、新鮮なものー

その再会の瞬間、自分に向けて入ってくるものの響きーその感覚が好きで、忘れられなくて、、、
そんなふうなことを大切に思いながら、わたしは日々を過ごし生きている。




                                                                                                                                                                                                        Osaka,2018


                                                                                                                                               








2019/07/23

ネパールを旅して


ネパールから戻って今日でちょうど5ヵ月となって、そのことに気づき少しはっとした。
ネパールでの体験は確実にわたしの生活や価値観にまで入り込んで影響を与えていると、実感としてわかっているからだ。

ひとびとの暮らしの質素さ、自然に逆らわずに生きること、そして運命を受け入れることー
水は山から引き、燃料を燃やして灯りを取る。煮炊きのための火は薪でおこすなど、それを不便と感じていない、そして昔から延々と続く生活を見た。

そして写真ー
今回の旅ほど、写真の大切さを、その持つ意味の深さを思ったことはない。

写真を媒介に置くことで、ひとに、場所に、わたしが関わること、関係するための丸太のような一本の棒を渡してもらったような感じである。

しかし今は、まだそれだけの状態である。

写真の展示や発表も良いことだが、この仕事がどんなものだったのか心底わかるまでには何年も掛かるのだろうということを、ここ最近わたしはようやく知ることになる。
それはー解き明かすことではなく、大きな精神の宇宙空間に、自ら身を投じさらに掻き分け入り込み、作品観を広げていくことなのだと・・・。
そして精神の草むらで別の横道や庭を作ってしまっても良い、休憩しても良い、いくら時間を費やすのも自由だ。

そこで見えた景色をぼんやりと受け止められたとき、はじめてあるひとつの作品としておぼろげながら輪郭を滲ませてくるのではないかと。
このところずっと思い、考えている*ある写真家の写真のことと、自身のネパールの写真とを錯綜させながら、写真の迷宮のことを考えている。

                                                                                                                 *ある写真家ー鈴木清氏

2019/07/16

ネパールへの旅-カトマンドゥ17-


カトマンドゥはどんなところだったのかと振り返ると、おぼろげに、ぼんやりと浮かび上がってきた像は、繁雑な都市性が凝縮され煮詰まっている部分、それは一方通行の行き止まりのような息苦しさがあると同時に、人びとの力の抜けた大らかさが風のように自由にそこを抜けていくようなところだと、今そのように思う。



2019/07/12

ネパールへの旅ーカトマンドゥ16-



わたしにとってのカトマンドゥの光景は、もしかしたらこの一枚に集約されるのかも知れない・・・と。
それほど朝のカトマンドゥには出来事が、そして思い出がある。








2019/07/10

ネパールへの旅-カトマンドゥ 15-




よくわからない絵柄、身に覚えのないものが写ってしまうことは写真だから当然なのだけれど、でもどこか懐かしいような気もする。
だからこの写真を掬い上げたのだ、と思う。

かつてこのフウケイを見たのは、小説の中か、映画か、自身の体験か、将又夢の中かな・・・。










2019/07/09

ネパールへの旅-カトマンドゥ14-



伝統と、時代を追いかけること。
守るべきものと、手放すもの。
そんなものが交互に見え隠れしている、カトマンドゥ。
都市に生まれ、そこで育つ若ものたちは、どんなことを考えながら生きているのだろうか・・・ふとそんなことを聞いてみたくなる。











2019/07/06

ネパールへの旅-カトマンドゥ13-




この都市に生きるひとたちのことを捉えようとしてわたしは日々カトマンドゥの町を歩いていた。
彼らの仕草を眺め、話している姿を見聞きし、町の食堂で毎日食事を取った。日中コーヒーを飲んだり、パンを買いに行く店のウエーターたちとは、にこやかにあいさつをするようになった。

そしてカトマンドゥはわたしがこれまで滞在した多くの都市と違い、旅行者でここに長く滞在する人はそれほど一般的ではないと感じた。
トレッキングや他の土地へ向かう通過地として利用されているような、そういった感触だった。








2019/07/05

ネパールへの旅-カトマンドゥ12-




写真を撮るという特殊な精神状態で、日々ひとびとの身体の動きや表情を見ていると、かれらの抱える複雑さが徐々に見えてくる。

ひとびとの表情のちょっとした憂いに表れるのは
個人的な事情や感情はもちろんのこと、その都市や社会を体現しているようなところがあると、わたしは信じている。






2019/07/03

ネパールへの旅-カトマンドゥ 11-



時間と記憶のカンケイ Ⅱ

東京から故郷のある町まで高速鉄道を使うと僅かに一時間半余り。だから車内販売は省略されてしまったことを最近知った。

高すぎると思いながらも、ポットから注いでくれる熱いコーヒーは飲みたくなるし、ビールもお弁当もできれば車内で買いたいと思う。

第一、一時間半では、ビールとお弁当、その後のコーヒーを頂いた後、余韻を愉しんでいる暇などはない。

三重か和歌山のあたりで、ポマードをたっぷり付けたテカテカの髪の背広を来た男性がいたなぁ、とか、18歳、沖縄からの帰途、関西から名古屋までの車内、隣の席の人とずっと話していたなぁ、と何十年経っても覚えているのは、そうしたこころに引っかかる出来事が幾つも重なっているからに相違なく、そういう意味に於いて、車内販売の担う役割はとても大きかったように思う。

その点、カトマンドゥから地方に向かって発車されるバスの旅は、日本とは比較にならないほど、出来事満載のものだった。

シートが壊れていてずっと踏ん張って座っていないと前にずり落ちてきてしまうものだったときもある。
ヤギと一緒に乗ってきたお婆さんや、農作業用の大きな籠を背負ったおじさんも普通に乗り込む。
そして途中下車して取る食事や、ドキドキのトイレ休憩、疲労困憊しながらもモモを食べて美味しかったな、という思い出もある。
バスが発車してから「待って~!」と、追いかけてきた女性もいた。女性も車掌も別に慌てていないところをみると、ネパールではよくあることなのだろう。

そう考えると、ネパールのバスの旅は幾つもの事柄がテンコ盛りで、記憶に残らない筈はないのだろうな、という人間味溢れるものばかりだった。




















2019/07/02

ネパールへの旅-カトマンドゥ 10-

時間と記憶のカンケイ Ⅰ

カトマンドゥの市街地から離れ、郊外へ向かって歩いていく。
そこは時の流れが極めて鈍く、まるで止まっているかのように感じられた。

ゆったりとした時間の流れというのは、豊かな実をつけた瑞瑞しい果実のような重みがある。
だからその歩みは自ずとゆっくりだ。
そしてその時間は、少しづつだけれども、確実に自分の中に記憶として積もっていくと感じられる。

早急な時間は軽く、時とともにわたしから離れ、どこかにとんでいってしまう。

だから敢えて早い方を選ばないこと、写真の方法も、そのための移動も。



2019/06/28

ネパールへの旅-カトマンドゥ 9-



カトマンドゥー
地形、気候、ひとびとの性質そのすべてが関わってきているのだろう、有機的でゴチャゴチャとした迷宮でありながら、地に吸い込まれるような沈み込んだ静けさと、そしてあるときは、抑えた低音で流れる熱風の音を聞き、感じることができる都市・・・。













2019/06/27

ネパールへの旅ーカトマンドゥ 8ー





ストリートでわたしが撮りたいと思うひとは、その人から発せられる輝くようなものーそれがずっと向こうから歩いて来るときから、感じられるのだ。
人が放つ光、見えないエネルギーとしか言いようがないのだが、それを感じるのは動物としてのわたしの本能からなのか、あるいは魂のことなのか、それはまだわからない。







2019/06/26

ネパールへの旅—カトマンドゥ 7—






カトマンドゥの雑踏の中で、感じたこと。
どの国の都市でも、わたしがストリートを歩いているときに、そこで働き、生きるひとびとの放つ、鋭さのようなものを感じたいと願う。
言い替えれば、わたしはそれを手がかりにして写真を撮っているのだと思う。

ここカトマンドゥのばあい、それが限りなくソフトに近かった。

日本に手紙を書いて投函したが、かなりの確率で届かなかった。人と待ち合わせをしても、遂に現れなかった。
緩すぎる国の仕組みや、人々の時間に対するルーズさは、別の意味ではひとを許すことにも繋がっているのではないだろうか。

これほど写真家冥利に尽きる国はない。









 


























2019/06/23

ネパールへの旅—カトマンドゥ 6—


ネパールのバス料金は日本では考えられない程、安い。
カトマンドゥ郊外から市中心部まで約10キロの道程で25ルピー(25円)だ。
バスというより、大型のバンやミニバスが主流で、人々の通勤通学などには欠かせないのだが、こちらに来てまだ日が浅い人間にとっては、どのバスに乗るのかの判断がかなり難しい。
車掌のような人(たいがい若い男性)が、そのバスの行先を大声で叫びながら近づいてくるので、ネパール語が読めない人でも乗車できるようになっている。
もしくは目的地のバスはどれか、どのあたりにくるのか、その辺の人に聞くという手もある。

ある日の早朝、マッラホテルの前で迎えの車をわたしはずっと待っていた。
車の到着が遅れて、45分ほどその場で待っただろうか、その間行き交うタクシーがわたしに合図してくるのは思えば当然だったが、バイクや車の運転手が、どこ行きのバスに乗りたいのかと聞いてきた。
推測するに、きっとわたしがバスを待っている困っている外国人に見えたのだろう。

ネパールの人はわりと内気で、これ見よがしに助けてくれたりはしないのだが、こうしたじんわりとした親切が嬉しいと感じた。












2019/06/22

ネパールへの旅—カトマンドゥ 5—



カトマンドゥ西方へ、宿からチャトラパティチョーク(チャトラパティ交差点)を北西へ折れると、ぐっと庶民的な空気に変わっていく。
ヴィシュヌマティ川を越えたあたり、その界隈の空気を感じるようにして、わたしはゆっくりと歩いた。

店やタクシーの呼び込みや声掛けがぷつりと途絶え、朝の人々の姿を多く見ることができる。
行商人や小さな修理工場で働くひとびと、店の前にたむろす男性たちや、通学する子供たち。

この辺りは学校がたくさんあるようで、いろいろな制服、年齢もバラバラな子供たちが、早い子だと午前7:00前から、通学のためわらわらと歩いている様子を見ることができる。












2019/06/21

ネパールへの旅—カトマンドゥ 4—


タメルでの日々は、撮影と食事のことを考えれば良いだけの(慣れてしまえば)至ってシンプルな生活だったが、最初はまったくそうはいかなかった。

タメル地区の中の道は、陥没、段差は当たり前で、ぼんやり歩いてはいられない。
車やバイクや人力車はスピードを緩めないし、予想できない凹凸や段差、そして突如現れる水たまりは、都市の中にあってさまざまな障害物を超え、バランスをとって歩かなくてはならない。
トレッキングをしているような、或いはトレイルランの練習のような、そんな不思議な感覚さえ与えてくれた。

東京のように、滑らかに舗装された歩道をぼんやり歩いている毎日からすると、注意と緊張感を途切れさせず、予想以上に骨盤や足を使って歩く街、というのが今とても懐かしく思える。

このように歩いた体験は、恐らくわたしのネパールでの日々の記憶のことと深く関わってきているのだろうと、写真を観ながらそんな風に感じるのだった。



2019/06/20

ネパールへの旅-カトマンドゥ 3-


カトマンドゥのタメル地区(滞在した宿のある場所)は、旅人のためのホテル、飲食店、土産物店、日用品から専門店までありとあらゆる店が揃い、東京で言えば新宿歌舞伎町とアメ横をミックスし、もっとずっと庶民的にして、そこに土埃が舞っている、迷宮・・・といったイメージだろうか。
(ネパールは舗装されていない道路が多く、カトマンドゥでは常に土埃が舞っている)

仕上がったばかりのカトマンドゥのプリントを見ながら、当時の撮影記録ノートを開いてみる。
それによると、2月6日は小川さんにタメル地区を案内していただいたとある。小川さんが「入れ歯通りがあるのよ」と言って、迷宮を分け入って連れて行ってくれたのは、入れ歯専門店ばかり並ぶ界隈だった。
他にも布生地、香辛料といった、専門の小売店がかたまっている。それで自ずと客層も決まってきて、女性しか歩いていない通りなど、エリアごとの特色を感じることができた。
両脇に高く立ち並ぶ建物の二階三階部分の窓や壁などはネパール様式の木彫装飾が施され、実に素晴らしい。
ただ、2015年4月のネパール大地震によって傾いてしまった建物を、つっかえ柱などで何とか支えているという、凝った彫刻を壁面に持つ木造建築を幾つか目にした。

そして、ここをひとりで歩けるようになるのはいったい何日かかるのだろうか?という不安がわたしの頭をよぎった。

それは、初めての土地での初日はいつもそう思うのだが、ここは極めて難易度が高いぞ、というワクワクした気持ちの方が勝った不安ではあったが・・・。









2019/06/19

ネパールへの旅—カトマンドゥ 2―


約四ヶ月前に撮影した写真は、最初からあったのではなく
ここにきてようやく目にすることができた像という感慨がある。

それは、フィルムの現像、ベタ焼き、プリントと段階と過程を経てきたということがあるからなのだが、撮影から現在に至るまでの自身の時間、経験といったものまで引き連れて、内包しているような感じさえする。

写真とは、まったく奥底計り知れないものだと思う。



2019/06/17

ネパールへの旅—カトマンドゥ 1―


ネパールの首都カトマンドゥは、東西南北数キロ四方に広がり約51k㎡、ふたつの河が貫通する。
5山に囲まれた盆地は、標高1,400メートルにもなる。

カトマンドゥでのひとりの日々が始まり、
この都市はどんなものなのだろうという興味と同時に、
ここに暮らすひとびとの素の暮らしが見たいと思った。

そして足は自然と観光地以外のリングロード(市を隔てる環状道路)へと向いていった。





2019/05/20

ネパールへの旅-マイディ村からカトマンドゥへ―


麓の村へ用があるというジープに乗せてもらい、山を下る。
途中店舗で集金をしながら下っていく、この車は燃料屋さんか何かだろう。
本来人を乗せるためではないので、帰途のジープの値段は格安だった。

麓のプチャールバザールでは、カトマンドゥ行きのバスのチケットを買うと、待ち時間なしであっという間にバスは出発した。
車内は地元の人々でごった返していたが、みな短い距離で降りてしまうので、やがて車内は空いて落ち着いてきた。

壊れていて、前方にズリ落ちてくる座席のシートをときどき後ろに戻しながら、バスはせわしなくカトマンドゥへ向かい峠道を急いだ。






 

2019/05/19

ネパールへの旅—マイディ村 12―


マイディ村―ここでの時間は何だったのだろうと考えた時、
二重、三重にもなって体験と記憶が押し寄せてくる。

クリニックの家族との夜宴、バッドリさんのご両親とのひととき。
実際にあったことと、かつて見たような懐かしさが層になって、あらわれては消えていく。
そして日本でのマイディ村についての新たな体験*が、それらの記憶を輝かせながら再度思い起こさせてくれる。

それはまるで床屋のサインポールのようであり、ずっと回転し、流れ続けながらも景色を見せてくれている。

同時にわたしはひとりの青年の目を、計らいを、ふとしたところに感じるのだ。

*上田達さんの写真展に足を運んだマイディ村に行かれたという男性や、その方が作った
 マイディ村の写真集を目にしたこと、そして小川博子さんとの再会。



 
 

2019/05/17

ネパールへの旅—マイディ村 11―


マイディ村のメインストリートは舗装されておらず、ひどい悪路が続く。
子どもたちが難儀しながらもワイワ通り過ぎていく姿は、かれらの身体のリズムを生み、こちらは音楽をみているような感じにさえなって・・・。




 


2019/05/16

ネパールへの旅―マイディ村 10―


マイディ村に限らず、ネパールには子供が非常に多い。
そして日本でいう保育園から高校くらいの歳の子が、ここでは同じ敷地内にある学校に通っているようだ。

仮設教室なのかもしれない、壁と天井があるだけの小屋のような教室が敷地の隅に建てられていたので覗いてみると・・・。



2019/05/15

ネパールへの旅—マイディ村 9―


お父さんの教えてくれた山道を行くこと20~30分。
道程からの景色は見晴らし良く壮観で、グラデーションのように重なり続く彼方の山の稜線、そして手前には山裾が谷に深く沈んでいく様子が、くっきりと見渡せた。

村のメインストリートに辿り着くと、激しい登り階段の上に学校のような建物があったので立ち寄ってみることにする。

校舎の中に入ることも、教室を覗くのも、撮影も自由。

この時はちょうど昼休みの時間だったのか、多くの子どもたちが教室にはおらず、外に居るか家に戻ったか、のようだった。

薄暗い教室で職員会議のようなものが行われていた光景が少し異様だったが、いかなる時でも節電、節電なのだろう。