2020/05/27

角度

 石が多い、多すぎる・・・・・。
そして大きく、角が丸っこいものが目立つ。
近所のよくお世話になっている方が、あまりの石の多さに「昔川だったのかな?」と呟いた言葉にピンときた。
多分そうだ、それも急な川。
うちの庭で採れる石は、大きく、角が丸い。
急で短い川ほど、水が運ぶ石も大きくなる。

山の上で知られる或る村は、鯨の化石が発見されたそうだし、冬の野尻湖はナウマンゾウの化石の発掘場で有名だ。

そして2019年春、わたしはネパールに居た。
ネパールでは、水洗トイレは稀、水は本当に貴重で、手を洗うほどの余裕はあの時も今もないと思う。
ハリオンでの地域のフェスティバルの会場で。夜になって「トイレに行きたいのだけど」と孤児院の女の先生に尋ねたところ「トイレはありません」と残念そうに言われた。
その時の先生の申し訳なさそうな顔は忘れられない。「仕方がないのです」という落胆の表情とともに。

ネパールで見た幾つかの居住の形に、わたしは大きな影響を受けていた。
日本では当たり前と思われている住宅設備の整った家はどれ程あるのだろうか。
住宅というものは雨風を凌げ、大らかに空間を囲えばそれで十分ではないかと、そんな考えに変わっていく。
そして実際にその5か月後、電気が通っていない我が居に3週間過ごした。ここは日本だし、夏だったので、さほど問題はなかった。電気の灯の代わりになるものはいくらでもあった。
今ではあの時の、陽が昇れば起き出し、暮れれば眠るという、自然のサイクルに乗っ取った生活が懐かしい。

今わたしは、何千万年も前の地層の事と、昨年の旅の経験を遡りながら、我が居を見つめている。

そんなことをしていると、色々なことが音をたてて自由に開いていく感じが、来る。









2020/05/21

全方向

すこし急な坂地に建つ我が居は、東西南北に、まったく違う景色が広がる。
田園地帯の微笑ましい小径が見える東側、手前にリンゴ畑と盆地の鉢のあちら側の斜面が見渡せる南側。北側は庭の多くの部分があり、友達のようにわたしが思っているケヤキの木もある。それから小径の境界があり、隣家の敷地へと続く。
西側は隣地の林がすぐ迫っているのだが、それは2階の窓辺から高い木々をかなり近くに感じられる絶好の場所だ。
全方位すべての景色が個性を持ちかなり違うということは、10代のころは気にも留めなかった。
しかし今はその事に驚きながら暮らしている自分がいる。
東側の窓がある部屋は良い景色と朝日が入ってくる特別の部屋だとは思っていたが、西側と北側の魅力は、今初めて分かったような気がする。

北北西にある大木の幹を見ながら用を足すことができたら最高の贅沢なのでは・・・と、妄想したことがあった。
以前東京に居るときに、新しい家の設計図を勝手に作ったことがある。
それはーフォルムや外壁はロンドンで見た集合住宅と、ドイツの或る建築家の設計した住宅から着想を得ており、2階の横長の窓からはいつでもケヤキの大木が眺められる。樹を感じ、樹と共に暮らすような家だ。そしてトイレは大木の幹の近くに据え、大きなガラス張りになっている。

残念ながらいまトイレの位置は真北なのだけれど、そのことはもうあまり気にならなくなっている。

2020/05/20

monochrome

モノクローム写真を撮り、それを続けている理由が、この何ヵ月か庭とその周辺をずっと見て過ごしていたからだろうか、ふと浮かんだ。

真冬から春へ・・・そして初夏へと移り変わる自然の変化は実にドラマチックだ。体感する日の気温差は、想像以上に激しい。
そして春に近づくにつれ、茶褐色だった地面は、弱々しい黄緑色の草たちが顔を出す。それらはやがて逞しく地面を覆い始め、茎や枝は太く固く力を増していく。
そして無数の緑色は、徐々に淡い色から、青に近く、深く変わっていく。

そう、色は変化していくものだ。

だからこそ、変化しないこと、ものをわたしは撮りたいのだと思った。
それは何かーものごとの成り立ち、そこに在ること、存在するということ。
モノクロームとは光、もの、影、そのシンプルなハーモニーのみで命を与えられる。
そして頭の片隅に何ものかを持っていて、
更にそれと被写体がうまく融合すると、真価を発揮する。

では、カラーの映像表現とは何だろうか?
カラー表現とは、まるで氷や水の上を滑っていること、それが止まらないような景色がわたしには浮かんでくるのだ。
同時に、そのものに入り込む、一緒くたになる、ものと混じり合っていく行為のような気がする。

ものと対峙して、それを見つめているイメージのモノクロームに対し、そこに飛び込んで混ざりあっていくのがカラーだとー。
庭を見つめながら、ふとそんなことを思った。



2020/05/19

庭で

朽ち果てる前の何とも言えない哀愁、時が落ち葉のように積み重なったぶ厚い何か、それさえも脆く崩れてしまいそう・・・・・。
物事が終わりを迎えるその少し前の、燻し銀の哀愁ーそんな言葉が浮かぶ。
そして芭蕉の世界観がスルリと目の前を通りすぎるような感覚を持つ。
我が家とその庭を見ていると、いつもそのような気持ちが沸いてくる。

現在読んでいるメイ・サートンの『海辺の家』には、国と時代が違えど、このように捉えてくれる人がいるのだという嬉しい発見の行があった。

12月10日の日記より
メイ・サートン『海辺の家』(武田尚子訳 みすず書房)

私は長いあいだ、心を強く引きつけるニューイングランドの大きな魅力の一つは、農村地域の威厳ある貧困だと感じてきたのだ。

はじめて、ネルソンの「甘美な格別にひなびた情景」がむしょうになつかしくなり、ノスタルジアの鋭い痛みを感じた。

古い家を少しずつ直しながら、(時には業者さんに入ってもらい)夏に向けて伸びる植物達と追いかけっこをするように、わたしは毎日庭仕事をしている。

(リルケが言うように)木は誰が見ていなくても春には新緑、そして夏には葉を大きく繁らせ、太く、高く成長していく。
石は、表面が少しだけ削れたとしても、何十年も変わらない威厳と存在感を発している。
シダ植物のまっすぐで凛とした美しさは、驚くべきものだ。太古、地球はシダ植物の時代が長きに渡って続いたことを理科の時間に習ったことを、ぼんやりと思い出す。
そして40年程前に植えたと思われる球根植物も、春になると決まったように咲いてくれるという発見は、こわばっていたわたしの心を柔らかくしてくれることに、大いに貢献してくれた。