2020/10/07

大阪から離れ・・・

 「人間至る処青山あり」ということばの放つイメージが昔から好きだ。意図せずに転地を求められた(半分は自分から求めた)若くない知人に、このことばを贈ったのは3、4年前だったか・・・。

大阪から離れて東へ向かいながら、車窓から見える京都の山(というよりも、丘それか、古墳かもしれない)の表面に生えたやわらかく、ふわりとした藪が目に入る。角が削がれた感じがなんとも長閑で、これはこれで美しいのだな、と思う。

故郷の景観だけが特別に美しいと思うこと何て、到底できない。

ノートを見ると、2年前に大阪で書いたことばがあった。

ー街とは、ひとりの人間にとって親のようなものだ。好きだったり嫌いだったり、そのもとを離れることもできるし、居続けることもできる。そうして年齢とともに、街への見方も変化していくー







2020/10/01

大阪にて。

初めて撮影のために滞在した2018年の大阪から早いもので2年。まだ撮影を終えられないでいる。

今年に入ってからは、コロナ渦の中での撮影で、大阪で暮らし、働く人の心の動きのようなものを感じることができているように思う。

ずっと昔、大阪出身で東京で暮らしている人に「本当の大阪の人は品が良いのですよ」と言われたことがある。たいへん失礼ながら、そのころはメディアなどから植えつけられた一方的な大阪のイメージを持っていたわたしには、それは簡単には信じられなかった。

しかし今大阪の街を歩いていると、実感としてそのように思う。

撮影をしながらわたしはとてもゆっくり歩いている。急に止まっては撮れないし、そのようにしたら、挙動不審者になってしまうからだ。そしてゆっくり歩かないと見えてこないこともある。(1日の終わりに近づくと単に足が疲れているという理由でもあるのだが・・・)

そうすると、自転車に乗った人や慌てて歩いてきた人に必然的にこちらが道を譲ることが多くなる。その瞬間「ごめんなさい」と、やさしく、やわらかく、もの静かに言葉を掛けてくるご婦人が昨日だけでも三人はいた。

その声の発し方、タイミング、ボリュームなどが本当に素晴らしい。この方達は普段から言い慣れているのだと感じた。

大阪は、都市としてのボリュームが大き過ぎないことが、この街を「人間の街」たらしめていると、わたしは思う。

柴崎友香氏の小説の中で「大阪、この街が大好きだ」という行を目にして、はっとしたことがある。同時に、人にそう思わせる街とは一体どんな要素が揃っているのだろうか?とも思案した。

大阪市内の其々の地域性や特性を体感としてざっくりと認識でき、自由に移動できる範囲内に、この街(大阪市)の体積は何とかおさまっているとわたしは思う。丁度良い大きさの都市ーと聞くと、パリやローマの街も頭をよぎる。

そしてきっとそれは自転車でも市内を隅から隅まで駆け抜けることができるような距離感であると思う。

山や海に囲まれているため、街がこれ以上膨張することを自然の力が阻止したのだが、それで良かったとわたしは思う。

今、大阪市民は大きな過渡期にいる。

大阪都構想を進めるか反対かの選択を、市民は迫られている。

都市の機能だけが先走った街に未来はない。どうか良い部分をずっと変えないで、守っていってほしい。






2020/05/27

角度

 石が多い、多すぎる・・・・・。
そして大きく、角が丸っこいものが目立つ。
近所のよくお世話になっている方が、あまりの石の多さに「昔川だったのかな?」と呟いた言葉にピンときた。
多分そうだ、それも急な川。
うちの庭で採れる石は、大きく、角が丸い。
急で短い川ほど、水が運ぶ石も大きくなる。

山の上で知られる或る村は、鯨の化石が発見されたそうだし、冬の野尻湖はナウマンゾウの化石の発掘場で有名だ。

そして2019年春、わたしはネパールに居た。
ネパールでは、水洗トイレは稀、水は本当に貴重で、手を洗うほどの余裕はあの時も今もないと思う。
ハリオンでの地域のフェスティバルの会場で。夜になって「トイレに行きたいのだけど」と孤児院の女の先生に尋ねたところ「トイレはありません」と残念そうに言われた。
その時の先生の申し訳なさそうな顔は忘れられない。「仕方がないのです」という落胆の表情とともに。

ネパールで見た幾つかの居住の形に、わたしは大きな影響を受けていた。
日本では当たり前と思われている住宅設備の整った家はどれ程あるのだろうか。
住宅というものは雨風を凌げ、大らかに空間を囲えばそれで十分ではないかと、そんな考えに変わっていく。
そして実際にその5か月後、電気が通っていない我が居に3週間過ごした。ここは日本だし、夏だったので、さほど問題はなかった。電気の灯の代わりになるものはいくらでもあった。
今ではあの時の、陽が昇れば起き出し、暮れれば眠るという、自然のサイクルに乗っ取った生活が懐かしい。

今わたしは、何千万年も前の地層の事と、昨年の旅の経験を遡りながら、我が居を見つめている。

そんなことをしていると、色々なことが音をたてて自由に開いていく感じが、来る。









2020/05/21

全方向

すこし急な坂地に建つ我が居は、東西南北に、まったく違う景色が広がる。
田園地帯の微笑ましい小径が見える東側、手前にリンゴ畑と盆地の鉢のあちら側の斜面が見渡せる南側。北側は庭の多くの部分があり、友達のようにわたしが思っているケヤキの木もある。それから小径の境界があり、隣家の敷地へと続く。
西側は隣地の林がすぐ迫っているのだが、それは2階の窓辺から高い木々をかなり近くに感じられる絶好の場所だ。
全方位すべての景色が個性を持ちかなり違うということは、10代のころは気にも留めなかった。
しかし今はその事に驚きながら暮らしている自分がいる。
東側の窓がある部屋は良い景色と朝日が入ってくる特別の部屋だとは思っていたが、西側と北側の魅力は、今初めて分かったような気がする。

北北西にある大木の幹を見ながら用を足すことができたら最高の贅沢なのでは・・・と、妄想したことがあった。
以前東京に居るときに、新しい家の設計図を勝手に作ったことがある。
それはーフォルムや外壁はロンドンで見た集合住宅と、ドイツの或る建築家の設計した住宅から着想を得ており、2階の横長の窓からはいつでもケヤキの大木が眺められる。樹を感じ、樹と共に暮らすような家だ。そしてトイレは大木の幹の近くに据え、大きなガラス張りになっている。

残念ながらいまトイレの位置は真北なのだけれど、そのことはもうあまり気にならなくなっている。

2020/05/20

monochrome

モノクローム写真を撮り、それを続けている理由が、この何ヵ月か庭とその周辺をずっと見て過ごしていたからだろうか、ふと浮かんだ。

真冬から春へ・・・そして初夏へと移り変わる自然の変化は実にドラマチックだ。体感する日の気温差は、想像以上に激しい。
そして春に近づくにつれ、茶褐色だった地面は、弱々しい黄緑色の草たちが顔を出す。それらはやがて逞しく地面を覆い始め、茎や枝は太く固く力を増していく。
そして無数の緑色は、徐々に淡い色から、青に近く、深く変わっていく。

そう、色は変化していくものだ。

だからこそ、変化しないこと、ものをわたしは撮りたいのだと思った。
それは何かーものごとの成り立ち、そこに在ること、存在するということ。
モノクロームとは光、もの、影、そのシンプルなハーモニーのみで命を与えられる。
そして頭の片隅に何ものかを持っていて、
更にそれと被写体がうまく融合すると、真価を発揮する。

では、カラーの映像表現とは何だろうか?
カラー表現とは、まるで氷や水の上を滑っていること、それが止まらないような景色がわたしには浮かんでくるのだ。
同時に、そのものに入り込む、一緒くたになる、ものと混じり合っていく行為のような気がする。

ものと対峙して、それを見つめているイメージのモノクロームに対し、そこに飛び込んで混ざりあっていくのがカラーだとー。
庭を見つめながら、ふとそんなことを思った。



2020/05/19

庭で

朽ち果てる前の何とも言えない哀愁、時が落ち葉のように積み重なったぶ厚い何か、それさえも脆く崩れてしまいそう・・・・・。
物事が終わりを迎えるその少し前の、燻し銀の哀愁ーそんな言葉が浮かぶ。
そして芭蕉の世界観がスルリと目の前を通りすぎるような感覚を持つ。
我が家とその庭を見ていると、いつもそのような気持ちが沸いてくる。

現在読んでいるメイ・サートンの『海辺の家』には、国と時代が違えど、このように捉えてくれる人がいるのだという嬉しい発見の行があった。

12月10日の日記より
メイ・サートン『海辺の家』(武田尚子訳 みすず書房)

私は長いあいだ、心を強く引きつけるニューイングランドの大きな魅力の一つは、農村地域の威厳ある貧困だと感じてきたのだ。

はじめて、ネルソンの「甘美な格別にひなびた情景」がむしょうになつかしくなり、ノスタルジアの鋭い痛みを感じた。

古い家を少しずつ直しながら、(時には業者さんに入ってもらい)夏に向けて伸びる植物達と追いかけっこをするように、わたしは毎日庭仕事をしている。

(リルケが言うように)木は誰が見ていなくても春には新緑、そして夏には葉を大きく繁らせ、太く、高く成長していく。
石は、表面が少しだけ削れたとしても、何十年も変わらない威厳と存在感を発している。
シダ植物のまっすぐで凛とした美しさは、驚くべきものだ。太古、地球はシダ植物の時代が長きに渡って続いたことを理科の時間に習ったことを、ぼんやりと思い出す。
そして40年程前に植えたと思われる球根植物も、春になると決まったように咲いてくれるという発見は、こわばっていたわたしの心を柔らかくしてくれることに、大いに貢献してくれた。




2020/04/01

メイ・サートン著『独り居の日記』

このところの朝の日課になっている読書は、メイ・サートン女史の『夢みつつ 深く植えよ』そして『独り居の日記』 である。
これは、メイ氏がアメリカの片田舎に買った広い家でひとり暮らし、自然や隣人たちとのふれあい、日々や季節の出来事を、研ぎ澄ませた感性で綴っているものだ。
そして、現在のわたしの感覚にぴったりと沿うものである。


『独り居の日記』  メイ・サートン 武田尚子訳 みすず書房

「10月11日」 —より抜粋

今という時代は、ますます多くの人間が、内面的な決断はますます少なくしかできない生活、真の選択はますます減少してゆく生活のわなにはまっている。ある中年の独身女性が、家族の絆を何一つもたず、静まりかえった村のある家に一人住み、彼女自身の魂にだけ責任をもって生きているという事実には、何かの意味がある。
彼女が作家であり、自分がどこにいるか、そして彼女の内面への巡礼の旅がどんなものであるか語ることができるのは、慰めになるかもしれないのだ。海沿いの岩の多い島に灯台守りがいると知ることが慰めになるように。ときどき私は暗くなってから散歩に出かける。そしてわが家に灯がともされて、生き生きと見えるとき、私がここに住んでいることにはかけがえのない価値がある、と感じる。私には考える時間がある。それこそ大きな、いや最大のぜいたくというものだ。
私には存在する時間がある。だから私には巨大な責任がある。私に残された生が何年であろうと、時間を上手に使い、力のかぎりをつくして生きることだ。
これは私を不安にさせはしない。不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々との生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。
それを知らせる信号は、常時行きかっている。

私にとって、詩が、散文よりもよほど魂の真実の仕事だと思えるのはどういうわけだろう?私は散文を書いたあと、高揚感を味わったことがない。意志を集中したときには、良いものを書いたし、少なくとも小説では、想像力はフルに働いていたわけなのに。たぶんそれは散文は働いて得るものなのに、詩は与えられるものだからだろう。どちらも、ほとんど無限に訂正を加えることができる。
また、私は詩を努力なしに書くといっているわけでもない。ほんとうに霊感を得たときは、一篇の詩に何度となく下書きを書き、高揚感を保持することができる。けれどこの闘いを続けることができるのは、私は恩寵にあやかっていて、心の中の深いチャンネルが開かれたときであり、そうしたとき、つまり私が深く感動し、しかも均衡を保っているとき、詩は、私の意志を超えるところからやってくる。
私が無期限で独房に入っていたとしたら、そして私が書いたものを読む人は一人もないと知っていたとしたら、詩を書きはするのだろうが、小説は書かないだろうと、よく私は考えたものだ。
なぜだろう?それはおそらく、詩は主として自分との対話であるのに、小説は他者との対話だからではないかと思う。この二つは、まったく異なった存在の形式からくる、思うに私が小説を書いたのは、あることについて自分がどう考えたかを知るためであり、詩を書いたのは、自分がどう感じたかを知るためだった。
                                           (『独り居の日記』は1970年の一年間のもの)





                                                                                                                                                                             Osaka,2018