2020/04/01

メイ・サートン著『独り居の日記』

このところの朝の日課になっている読書は、メイ・サートン女史の『夢みつつ 深く植えよ』そして『独り居の日記』 である。
これは、メイ氏がアメリカの片田舎に買った広い家でひとり暮らし、自然や隣人たちとのふれあい、日々や季節の出来事を、研ぎ澄ませた感性で綴っているものだ。
そして、現在のわたしの感覚にぴったりと沿うものである。


『独り居の日記』  メイ・サートン 武田尚子訳 みすず書房

「10月11日」 —より抜粋

今という時代は、ますます多くの人間が、内面的な決断はますます少なくしかできない生活、真の選択はますます減少してゆく生活のわなにはまっている。ある中年の独身女性が、家族の絆を何一つもたず、静まりかえった村のある家に一人住み、彼女自身の魂にだけ責任をもって生きているという事実には、何かの意味がある。
彼女が作家であり、自分がどこにいるか、そして彼女の内面への巡礼の旅がどんなものであるか語ることができるのは、慰めになるかもしれないのだ。海沿いの岩の多い島に灯台守りがいると知ることが慰めになるように。ときどき私は暗くなってから散歩に出かける。そしてわが家に灯がともされて、生き生きと見えるとき、私がここに住んでいることにはかけがえのない価値がある、と感じる。私には考える時間がある。それこそ大きな、いや最大のぜいたくというものだ。
私には存在する時間がある。だから私には巨大な責任がある。私に残された生が何年であろうと、時間を上手に使い、力のかぎりをつくして生きることだ。
これは私を不安にさせはしない。不安は、私が知りもせず知るすべもない多くの人々との生活と、アンテナかなにかでつながっているという自分の生活の感覚を失ったときに起こるのだ。
それを知らせる信号は、常時行きかっている。

私にとって、詩が、散文よりもよほど魂の真実の仕事だと思えるのはどういうわけだろう?私は散文を書いたあと、高揚感を味わったことがない。意志を集中したときには、良いものを書いたし、少なくとも小説では、想像力はフルに働いていたわけなのに。たぶんそれは散文は働いて得るものなのに、詩は与えられるものだからだろう。どちらも、ほとんど無限に訂正を加えることができる。
また、私は詩を努力なしに書くといっているわけでもない。ほんとうに霊感を得たときは、一篇の詩に何度となく下書きを書き、高揚感を保持することができる。けれどこの闘いを続けることができるのは、私は恩寵にあやかっていて、心の中の深いチャンネルが開かれたときであり、そうしたとき、つまり私が深く感動し、しかも均衡を保っているとき、詩は、私の意志を超えるところからやってくる。
私が無期限で独房に入っていたとしたら、そして私が書いたものを読む人は一人もないと知っていたとしたら、詩を書きはするのだろうが、小説は書かないだろうと、よく私は考えたものだ。
なぜだろう?それはおそらく、詩は主として自分との対話であるのに、小説は他者との対話だからではないかと思う。この二つは、まったく異なった存在の形式からくる、思うに私が小説を書いたのは、あることについて自分がどう考えたかを知るためであり、詩を書いたのは、自分がどう感じたかを知るためだった。
                                           (『独り居の日記』は1970年の一年間のもの)





                                                                                                                                                                             Osaka,2018