2019/02/28

ネパールへの旅を終えて

ネパールに来て6日目に、初めてヒマラヤ山脈を見ることができた。
ヒマラヤはネパール語で「万年雪の山」という意味だそうだ。1年を通して雪が解けることはない。
日本の最高峰である富士山を始め日本アルプスでは、夏には山肌の雪は多少残るもののほぼ解けるので、やはりヒマラヤは標高とスケールの桁が違うという事をそれだけでも知らしめられる。
その峰々は、思わずスプーンですくって食べてしまいたくなるような丸みを帯びながらも尖った氷と雪から成り、ひとつとして同じ形はなく、この景色をずっと見ていたいと思った。
ヒマラヤ山脈のその姿は雄麗で厳か―アイヌの人はかつて大雪山のことをカムイミンタラ(神々の遊ぶ庭)と呼んだが、ヒマラヤもまた、そんな親しみさえ感じさせてくれるような雰囲気を漂わせていた。


ネパールで過ごした3週間―ここでは(魂が)流れている―と感じた。
生きることから死ぬことに向かって初めから人間は川のように流れているのだろう、それをネパールの人は体現しているようなところがあると思われた。

多くの民族や宗教、慣習などが入り混じる中、厳しい自然もそこにはある。それに逆らわず、受け入れて淡々と生きているように思えた。
また、病気になると、みな医者に行くより祈祷に行くと聞いたことも関係しているのかもしれない。
そしてこの国独特のやり方、ルールというものも幾つか経験し、それが更にこの感触を強いものにしていった。

帰国直後、ハリオンの孤児院の子が怪我をして、カトマンドゥの病院まで連れて来られたという話を知った。
何ということだ、と思った。
若い命―その流れを終わりにしてほしくなかった。

わたしには彼らが流れていることが見える。
彼らは、わたしが流れているように見えるのだろうか?

出発前、旅行書の中で見つけた「ネパールへは、健康な身体と柔らかな精神を持って」ということばがわたしの中で引っ掛かっていた。
しかし、本当にそのことば通りだった。

その通りにすれば、思いがけない体験や気づきが待っている、ネパールはそんな国だった。


この旅ではたくさんの方が私を助け、導いてくれた。
特に小川博子さん、ロクさんご夫妻の多大な協力と助力にはこころから感謝いたします。


このブログ「ネパールへの旅」に掲載されています写真はスマートフォンで撮ったもので、挿絵のように見ていただけたら幸いです。実際の撮影データは下記の通りです)

撮影      メインカメラ―マミヤ7
      サブカメラ―マミヤRB67
      
       フィルム―Kodak 400TX 120
                                    BLACK&WHITE NEGATIVE FILM.







2019/02/27

ネパールへの旅

カトマンドゥを後にして、


カトマンドゥ、トリブヴァン国際空港からソウル、インチョン空港へ。乗継のため待つこと数時間。
インチョン空港は、超近代的な空港だ。
その豪華絢爛たる様は世界随一と思われる。
 
水の心配なし、トイレの心配なし(紙の有無、流すと詰まるという心配)、寒さの心配なし、停電の心配なし、素敵なカフェにはいつでもコーヒーの良い香りが漂い、フリーの仮眠用ベッドまで備えられていることに、思わず安堵のため息が出た。

しかしソウルで、わたしは何か大きな欠落を感じていた。

ネパールでの日々、ペットボトルの水をあれほど大事にしたことはなかった3週間だった。
飲み水にするほか、歯を磨いたりうがいする時のために、少しづつちょびちょびと使った。
間違っても、真夜中に無くなってしまっては大変だったから。

一回一回の食事は、時に珍しく思い、興味を持って有難く頂き、美味しくても、そうでなくても完食した。
バスが時間通り発車しなくても、大幅に遅れても、出発してくれたら良しとした。

すべてが感謝する気持ちの日々の連続だったのかもしれない。

そしてもっとも感謝したいのは、ネパールの人々に対してだ。

ネパールで人々の写真を撮る事は、これまでになくスムーズだった。
写真を撮られることで、何か不正利用されたり、悪用される、というイメージや思考回路はこの国の人々はまったく持ち合わせていないようだ。

カメラを持った外国人が歩いていることに対して興味深くしげしげと見つめたり、近づいてきたり、顔を背けたり、照れたり、その反応が人によって様々だった。
人の反応を見ることが、この旅の楽しみのひとつとなっていた。

そして日本でも恐らくこういった時代があった筈だと、過去の日本にタイムスリップしたような気持ちでひとりに感慨にふけていた。




 
 
 





ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々~5~


ネパールの首都カトマンドゥは、リングロードという環状道路に取り囲まれ、それはおよそ南北に7,8キロ、東西に5,6キロ四方で広がっている。
そして市街地はその真ん中のほんの2,3キロ四方に密集している。
わたしの撮影は、カトマンドゥ中心部からリングロードへ、北、東、西へと向けられていった。(南部はPATAN(パタン))
西へ向かった日、チャトラパティチョークを北東へ折れると、ぐっと庶民的な空気に変わっていく。
タクシーや店の呼び込みなど、観光地で声を掛けてくるような客引はパタリとなくなる。
ヴィシュヌマティ川を越えたあたりを歩く。舗装道路は消え、黄土色の地面からは常に土埃が立ち上っている。
この辺りは学校が密集しているのか、様々な制服を着た年齢もバラバラな子供たちがワラワラと歩いている。
朝7時位から午前中いっぱい、学生の姿は途切れることなく見られる。
学校の始まる時間がまちまちなのか遅刻する生徒が多いのか、お昼近くなっても別に慌てた様子はない。

カトマンドゥで人の写真を撮るときに、特に学生と、道端や店の前でたむろしている中年の男性たちが面白いとわたしは感じていた。
何故だかよく分からないのだが、学生は生き生きとしているし、カトマンドゥの中年男性には、何やら時間的な余裕が十分にあるように見うけられ、その力の抜けた感じが良かった。

それと、バスを待っている人々の姿は印象的だった。
ネパールでは車の移動が主な交通手段で、それ以外は飛行機になってしまう。
狭い国土に高低差の激しい地形のネパールには、鉄道がほとんどない。(インド国境近くの平野部に行くと、少しはあるのだが・・・)
そのため人々を乗せ様々な方角へと向かうバス乗り場はいつもごった返していて、バスを待つ人々の所在無い頼りない表情が何とも言えず、その前を通り過ぎる時いつも心惹かれるのだった。
















2019/02/21

ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々 ~4~
Jhochhen Tole(ジョッチェン界隈)
                別名Freak St.

カトマンドゥにある世界遺産のひとつ、Durbar Square(ダルバール広場)の南に隣接するJhochhen Tole(ジョッチェン通り)界隈は、60年代、ヒッピー風の旅人がたむろしていたという所で、そのあたりの長期滞在者が多く、その名残を残していることを書籍で知り、どんなところなのか興味がわいた。
大麻天国(ネパールで大麻が非合法化された1972年まで)だったころのカトマンドゥは、おそらく仏映画「カトマンドゥの恋人」(1969年)を観るとその雰囲気が良く分かるかもしれない。

とっぽいー今でもこのことばを使うのなら、この表現がジョッチェン界隈にはしっくりくる。
そしてわたしが滞在している宿のあるタメル地区とは違い、子供だましの土産物屋などは見当たらない。
長期滞在するには丁度良い場所なのだと思った。
埃や煤をかぶったイギリス風建築ネパール判といった建物が密集し、うらぶれた感じの魅力的な路地が形成されていた。
2015年4月の、ネパール大地震の際に崩れた煉瓦などが山積みになっていて、この辺りはあまり補修が進んでいないようだ。
それでも良く見ると、煉瓦の壁を埋め直した跡がたくさんあり、まだその繋ぎ目の石灰が生々しく鈍い光を放っていた。

高い建物同士が迫ることで作り出される閉鎖的な空間はどこか怪しげで、秘密の隠れ家にぴったりという雰囲気を醸し出している。

「大型カメラで三脚を据えて撮るなら、ここだ」と、わたしは直感した。
あるいは映画を撮るのも良いかもしれない。
よくある埃を被ったような町の、味のある大道具セットが、ここではそのまま使えるからだ。

途中、先が行き止まりなのか通り抜けできるのかわからず、向こう側にいたおじさんにその事をジェスチャーで合図して聞くと「Come」と言って、先に歩き始めた。
地震で崩れた建物後の広い空地を通り抜け、その先に道はちゃんとあった。















2019/02/20

ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々~3~

ー複雑な地形と民族から成る、ネパールー
ネパールの国土は北海道の2倍弱、ヒマラヤ山脈を背にする高山と、インド平原に連なる低地からなる。
多くの民族と言語があり、その数は24とも96とも100とも、参考文献によって書いてあることが違い、わたしはまだその辺りのことをよく理解できていない。
ネパール語を共通語とし、現在学校では子どもたちに英語で他の科目を教える授業がメインとなっているようだ。
それでは現代の子供たちは、学校では英語を、友達との会話はネパール語を、家族や親族血縁とは自分の民族のことばで話すのだろうか・・・・・?

なぜこんな事を記したかといえば、
カトマンドゥに居ると、実に多種多様な顔立ちの人と日々すれ違うからだ。
日本人と言っても遜色のないようなチベット、モンゴル系の顔立ちの人もよく見るし、インド系はもちろん、ペルシャ系の顔立ちから、東ヨーロッパ系の顔立ちまで、広すぎて、複雑すぎて、民族何たるかが、よく掴めないでいる。
また、1962年に廃止されたカースト制度は、いまだに根強く残っていると言われている。
幼い頃から親や地域から教えられた価値観を、間違っていると感じても、それを自分の中から剥ぎ取ることはなかなか容易なことではないはずだ。

しかし今回わたしを南ネパールのハリオンに案内してくださった3人は、それを飛び越えてきた人たちだった。

このような複雑な背景を持った国、ネパールで
わたしが本当に見たり、感じたいのは、こういう人たちのことーその信念に基づく行動と、それが人や社会に与える影響ーそのことについてなのだと思った。
それは大阪、西成に居たときも同じだ。
何かわたしが直接社会福祉活動等に参加をするわけではないのだが、彼らのやっていることを見たり、彼らと話をすることによって、精神に入りこんでくるほんの小さな、ささやかな何かーそれが細い糸でどこかの回路に繋がっていて(それがどこでどうなってやって来るのかは分からないのだけれど)
わたしが写真を撮ることをさせてくれているような気がするのだ。








 





2019/02/19

ネパールへの旅


カトマンドゥでの日々~2~

ネパールの学校は公立校も私立校もあり、
みな制服(ジャージを制服にしている学校も)を着ているので、学校に行っていると、学生ということが一目瞭然だ。

女子は100%といって良いだろうか、髪を腰位まで長く伸ばしている。お下げ髪で白いリボンも決まりのひとつ、というような学校もある。
それから、男女共に上着とスラックスにネクタイという学校もあり、このスタイルの女子が向こうから歩いて来ると、わたしはふわりと春の風が吹いてきたような気持ちになる。

その一方、10歳前後でも学校に行かず労働をしている子供たちもいる。
ハリオンへ行く道すがら、昼食のために立ち寄った山間の食堂で給仕をする男の子*の目の温度の低さが忘れられない。
あまりに印象的な佇まいだったので、写真を撮らせてもらった。
静止してこちらを見てくれたが、決して笑うことはなかった。

カトマンドゥでも、荷物を運んだり、野菜や果物を売り歩いたり。下町の方に行くと、職人として一人前に工場などで働いている少年の姿を頻繁に目にする。
こちらを見る彼の、少年の身体をした大人のような表情ーいや決して大人と同じではない筈なのだが・・・・・
それにわたしはいつも違和感を覚えると同時に、写真なんかを撮っているもうひとりの自分もいるのだ。

*ネパールでは、給仕は男性の仕事と決まっているようです。













ネパールへの旅

カトマンドゥでの日々~1~

2月頭にネパールのカトマンドゥへ到着してから、南のハリオンやマイディ村へ旅をしていて、カトマンドゥ滞在は飛び飛びになっていた。
その時は半日や2日間の撮影だったが、後半は腰を落ち着けて、ひとりカトマンドゥでの生活を送ることになる。

2月6日、小川博子さん(叔母の長年の友人で、今回の旅でたいへんお世話になっている方)に
タメル*を案内されたとき、ここは本物の迷宮だと思った。
混沌、人と店の多さ、道や路地の複雑さや、構わずに飛ばすバイクやリキシャをやり過ごしながら、ひとりで歩ける日が来るのだろうかと少々弱気になっていたことを、思い出す。

今では、曜日や時間によって、客引きのお兄さんのやる気の有り無しとか、微細な違いが分かるようにまでなってきた。

*タメル
カトマンドゥの北部に位置し、各国のツーリストが集まる場所。ホテルやレストランや土産物屋がひしめき合い、客引き(ネパールはソフト)やタクシー、リキシャーなどで熱気がある。






 






2019/02/17

ネパールへの旅

~上田達さんの写真集『紫の空』から
 マイディ村へ~

翌朝7時前に部屋を出て、ひとり、村を散策する。
こんな山の村でも、学校に行く子供たちは本当に朝早い。
(カトマンドゥでも、制服を着た子供たちが7時前に登校する姿をよく見かけたのだが)
(山の)上の方に登ったり、急坂を下ったり、
村を歩きながらわたしは耳を澄ませ、
日本では見られないその植生の勢いと不思議さに圧倒され、菩提樹のたくましくどっぷりとした幹と枝ぶりに魅了された。

朝8時、予定が変わり3人だけでバッドリさんの家を捜すことになる。
10分も歩かないうちに、斜面のきつい畑の中を下った先にバッドリさんの家があった。
とても小さな家だ。
30メートル程離れた隣家の人に聞くと、今は誰も住んでいないが、少し先に両親の家があることを教えてくれた。
山の斜面を利用して作った段々畑を下ったり藪こぎしたり、人の家の軒先を通りながら歩くこと更に10分、遂に辿り着く。
そしてその家は、上田達さんの『紫の空』の中にあるマイディ村の写真の家とそっくりだった。
同じ地域なので似た家かもしれないという疑念をもちながらも、バッドリさんの高齢のお母さんと若いお嫁さん(お孫さんの奥さんか?)と5歳くらいの男の子がそれぞれ朝の仕事や身支度をしている様子をじっと見ていると、そのうちにバッドリさんのお父さんが山の方から戻ってきた。
同行のネパール人ジャーナリストがお父さんに色々話を聞いてくれている。
バッドリさんは外国に出稼ぎに行っていること、その奥さんと子供たちはカトマンドゥに住んでいること。
その間お母さんは、わたしたちにチヤを出してくれたり、掃除をしたり、時に笑顔をこちらにに向ける。
その深く刻まれた顔の皺は笑うと一層そのひだを表すこととなり「嘘偽りのない、こころからの・・・」ということばがぴったりな表情をする人たちだと思った。
それから、お母さん作ってくれたダルバートを頂きながら、長い時間ここに居たように思う。
斜面に作られたこの家は、村のメインストリートに出るまでにも坂道を登ったり下ったりと30分ほどだろうか、時間が要る。
自給自足の生活をベースに、家族みなそれぞれが自分の役割を果たして生活している。
そして何より丁寧な暮らしをしていることが一目でわかるような家であり、家族だった。

カトマンドゥに戻り、この家に上田達さんが泊まったということを『紫の空』を上梓した上田敦子さん(達さんのお母さん)が送ってくれた写真から、ほぼ確認することができた。

達さんがこの家で過ごした時間が思い浮かぶようだった。
そしてあのような生き生きとした、純粋な写真を遺したのだと思った。




















2019/02/16

ネパールへの旅


~上田達さんの写真集『紫の空』から
 マイディ村へ~

マイディ村へ到着したのはもう夕暮れだった。
旅に同行してくださったふたりと、急いでホームスティできる家を探す。
歩くこと15分余り、沈みかけた太陽が、その最後の光を照らし、道や家々の壁を紅く染めていた。
上田達さんの撮った夕暮れのマイディ村の色、そのものだと思った。

ホームスティを受け入れている家に到着すると
お母さんの笑顔が温かく迎え入れてくれる。
日も暮れかかっていて「今日泊まる宿は見つかるのだろうか、」というわたしたちの必死な心情と裏腹に、お母さんは涼しい顔で中庭で働いている。
その日丸1日、殻のついたマスタードをビニールシートいっぱいに広げ乾燥させていたものを、引き上げているところだった。
この家は親子3世代が住んでいて、息子さんがクリニックと薬局を開業し、ホームスティの客も受け入れているようだ。
その息子さんの娘で、10歳くらいの女の子が、妹である赤ちゃんをいつも抱っこしてる。
つまみを作ってもらいビールを飲みながら色々話してるそのうちに、ダルバート(ネパールの定食)の夕飯が出てくる。
わたしたちはキッチンのテーブルで、家族や他の宿泊客は中庭のテーブルで食べているのだろうか、お母さんがひっきりなしにダルバートを皆に運んでいる。
食事が終わり、わたしたちはまだビールを飲んでいるところへ、息子さんとその奥さんが歯を磨きながらキッチンにやってきた。
上田達さんが2010年にこの村のバッドリさんという人の家に2泊ファームスティしたという旅行社の日程表を手掛かりに、バッドリさん宅を捜している旨を同行のネパール人ジャーナリストが尋ねる。息子さんはその家を知っている様子で、明日8時に案内してくれることになった。
わたしたち3人のテーブルには、そのうちにお母さんと女の子も加わり、日本の話やネパールの話に花が咲く。
女の子が、わたしたちが日本語の歌を歌った後、かなり恥ずかしがりながらも、ネパールの歌を歌ってくれた。
そのリズムは異国情緒に溢れ、声は僅かにハスキーで、凛としていて、本当に可愛らしいと思った。













ネパールへの旅


 ~上田達さんの写真集『紫の空』から
 マイディ村へ~

マイディ村は、ネパールの首都カトマンドゥと第二の都市ポカラのちょうど中間に位置し、東西に長い竹輪のような形をしたネパールの国土のほぼ真ん中に位置する。
カトマンドゥから、マイディ村の麓の町、プチャールバザールまでバスで約4時間ほど、そこからマイディ村へ。歩くと6時間、バスやジープだと2時間、舗装道はあっというまに終わり、ゴロゴロとした石と土の道や、時に水たまりの泥沼のように隆起した中を、バスは車体ごともっていかれながら滑りながら、粘り強くゆっくりと進む。
そのため人が歩く速度と大差はないので
天気や気候が良ければ、のんびりと歩いて登るのも悪くないものだろう、と思った。
マイディ村へは、このバスの終点で降りた。