2018/11/22

大阪での記憶、を辿って。

「大阪のおばちゃん」と呼んでいた人がいる。
小学生のころの春休みの長い休みには、毎年のように尼崎の「大阪のおばちゃん」宅に姉妹3人で預けられていた。
彼女は父の叔母で、独身で一人暮らしで、子供好き、5部屋ある一軒家に住んでいたので、わたしたちが泊まっても、どうってことはなかった。
「大阪のおばちゃん」には、よく旅行に連れて行ってもらった。
京都、奈良、兵庫、岡山などのお寺や歴史的な場所や、風光明媚な自然の美しい場所が多く、子供ながらに、楽しいとかつまらないという感情は特に生まれなかった。
ただただ、何か経験が積み重なっていく時間ーたとえば砂時計が静かに落ちていくだけのようなーそんな日々だった。

その「大阪のおばちゃん」とわたしたちが、あるお寺に出掛けた時、たまたま有名な写真家が寺の撮影をしていたそうだ。
わたしがその写真家の仕事の様子をずっと見ていたと
わたしが写真を志して随分経った頃、手紙で知らせてくれたことがあった。
それは一体誰だったのだろう?と今となっては聞く人はいない。人からの手紙は全部取ってあるわたしは、膨大な中からその手紙を探し出せばその名前は判明するのだろう。
おそらく土門拳か入江泰吉だろうと予想するけれど、幼年のころの記憶はあまりにもさりげなくたよりない。まるで野に咲く細い一輪の花のようである。

先日、入江泰吉記念奈良市立写真美術館に初めて行った。
良いところだった。
美術館に行くまでの道程、土に藁を混ぜて練り、積み重ねられた土塀を数多く目にした。
それは有機的で、膨らんだりうねりが現れ、長い長い年月を感じさせた。
崩れそうになっていても直す様子はなく、近隣のひとびとの太古への尊厳と親しみが感じられた。
静かで悠久を感じさせる場所、こんなところを通って観る写真は、どんなふうに人のこころに吸い込まれていくのだろうか?と思いながら、
入江泰吉の常設展と、野村恵子×古賀絵里子の企画展示をゆっくり観ることができた。