この旅では本当に色々な事を考えさせられたが、これまでの旅と違っていたのは人との時間を多く共有したことだと思う。
そしてそれが、本当に貴重なものとして私の記憶に保存されようとしている。
私はいつも一人で海外に行き、一人で過ごし、一人で帰ってくるという撮影旅行を定番としてきた。
海外に行き、滞在し、目的の撮影をして安全に帰ってくる・・・という事で精いっぱいで、予定外の出来事を楽しむという気持ちの余裕が無かったのだと思う。
しかしこの旅は最初から違っていた。
-メキシコシティ-
私がメキシコシティに滞在することが決まると、日本写真協会の武田純子さんが、メキシコシティの資料を集めファイルにまとめてくれた。また仕事で知り合ったアルゼンチン人の写真家Celeste Urreagaさんがメキシコシティに滞在しているからと言って、紹介までしてくれた。
Celesteさんは実際に会う前から、私とのメールの最後に「100のキスを贈ります」何て書いてきて「さすがアルゼンチン人は世界一情熱的だなぁ」と思っていた。
しかし実際に会ったCelesteさんはもちろん情熱的ではあったのだが、繊細で、どこか孤独の影をいつも引きずっているような女性だった。
そして彼女がアルゼンチン、メキシコ、日本と3ヶ国を拠点に活動する理由が、私には少し理解できたような気がした。
そんなCelesteさんと彼女の友人たちと過ごす時間によって、穏やかで優しく、陽気なメキシコの人の核の部分を垣間見ることができたのだ。
-キューバ-
◆展覧会にて
「ENTRE FRONTERAS」展の会場では、ひとりひとりの方との会話が強く私の心に残った。
「会場の設置に3日掛かったんだよ」と話したスタッフの男性は、どこか誇らしげだった。
*写真組合を作って自分たちの写真の販売をしている若い写真家と話をした。
デジタルとフィルムの話題になり、キューバではフィルムは本当に貴重でなかなか手に入らないとのこと。
仲間が海外に行った時に買って来てもらったりと、皆で融通し合っているそうだ。
どんな時にフィルムで写真を撮るのかと聞いたところ、例えば*フィデル・カストロ氏が2016年11月に死去した際や、ハバナにハリケーンが来て市内が浸水した際など、本当に歴史的な出来事が起きた時にのみ使うそうだ。
社会と写真家の関係性が密接に感じられる彼の話は、私にはとても興味深かった。
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私がキューバに行き、実際に肌で感じたこの都市の状況で、日本の作家の写真展をしてくれたことは奇跡に近いことのように思える。
物が自由に手に入らず、社会の仕組みも情勢も日本とはまるで違う中で、このうだるような暑さだ。
日本写真協会の武田純子さんは、キューバでこの展覧会を実現させたいという強い思いがあった。
カーサ デ アジアのディレクター、テレシータ・エルナンデスさんが、それを快く受け入れて下さる。
在キューバ日本大使館の伊藤ヒカルさんが、実際の業務を一手に引き受けて下さった。
この展覧会の開催は、個人の情熱の賜物だと思う。
武田純子さん、テレシータ・エルナンデスさん、伊藤ヒカルさん、そしてそれぞれの関係者の皆さんには、心から感謝します。
◆ハバナでの日々
私のハバナでの時間は、一種大きなうねりの中に居るような感覚であった。
キューバ社会という大きな波に取りこまれ、私はまだその余韻から醒めていない。
それは私がこれまで体験したことのないような類のものだ。
私の叔母が朝日新聞の連載記事「キューバをたどって」(全10回)の切り抜きをまとめたものを、送ってきてくれた。
それによって、キューバについて様々な側面からの情報を得ることができた。
キューバは現在、間違いなく、激動の最中にある社会だ。
私はそれらを受け止め、解釈する準備がまだできていない。
撮影した写真を通して、少しずつ自分にとっての「ハバナ」もしくは「キューバ」をこのブログで展開していけたら・・・と思っている。
*写真組合-社会主義国のキューバでは、写真家が写真を販売する場合、写真組合という形をとらないと、販売許可が下りないとのこと。
*フィデル・カストロ(1926-2016)-前国家評議会議長。
フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、キューバの政治家、革命家、軍人、弁護士。社会主義者で、1959年のキューバ革命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。 (wikipediaより引用)
カーサ デ アジアで働くフレグラさん |