麓の村へ用があるというジープに乗せてもらい、山を下る。
途中店舗で集金をしながら下っていく、この車は燃料屋さんか何かだろう。
本来人を乗せるためではないので、帰途のジープの値段は格安だった。
麓のプチャールバザールでは、カトマンドゥ行きのバスのチケットを買うと、待ち時間なしであっという間にバスは出発した。
車内は地元の人々でごった返していたが、みな短い距離で降りてしまうので、やがて車内は空いて落ち着いてきた。
壊れていて、前方にズリ落ちてくる座席のシートをときどき後ろに戻しながら、バスはせわしなくカトマンドゥへ向かい峠道を急いだ。
マイディ村―ここでの時間は何だったのだろうと考えた時、
二重、三重にもなって体験と記憶が押し寄せてくる。
クリニックの家族との夜宴、バッドリさんのご両親とのひととき。
実際にあったことと、かつて見たような懐かしさが層になって、あらわれては消えていく。
そして日本でのマイディ村についての新たな体験*が、それらの記憶を輝かせながら再度思い起こさせてくれる。
それはまるで床屋のサインポールのようであり、ずっと回転し、流れ続けながらも景色を見せてくれている。
同時にわたしはひとりの青年の目を、計らいを、ふとしたところに感じるのだ。
*上田達さんの写真展に足を運んだマイディ村に行かれたという男性や、その方が作った
マイディ村の写真集を目にしたこと、そして小川博子さんとの再会。
マイディ村のメインストリートは舗装されておらず、ひどい悪路が続く。
子どもたちが難儀しながらもワイワ通り過ぎていく姿は、かれらの身体のリズムを生み、こちらは音楽をみているような感じにさえなって・・・。
マイディ村に限らず、ネパールには子供が非常に多い。
そして日本でいう保育園から高校くらいの歳の子が、ここでは同じ敷地内にある学校に通っているようだ。
仮設教室なのかもしれない、壁と天井があるだけの小屋のような教室が敷地の隅に建てられていたので覗いてみると・・・。
お父さんの教えてくれた山道を行くこと20~30分。
道程からの景色は見晴らし良く壮観で、グラデーションのように重なり続く彼方の山の稜線、そして手前には山裾が谷に深く沈んでいく様子が、くっきりと見渡せた。
村のメインストリートに辿り着くと、激しい登り階段の上に学校のような建物があったので立ち寄ってみることにする。
校舎の中に入ることも、教室を覗くのも、撮影も自由。
この時はちょうど昼休みの時間だったのか、多くの子どもたちが教室にはおらず、外に居るか家に戻ったか、のようだった。
薄暗い教室で職員会議のようなものが行われていた光景が少し異様だったが、いかなる時でも節電、節電なのだろう。
たっぷりとした波が押し寄せるような豊かな時の層、角ばったものは何ひとつなかった。
果てしなく長く続く時、というのはこういうことを言うのかもしれない・・・。
しかし、そろそろこの家をあとにしなければならなかった。わたしたちの荷物はまだ、昨夜泊まったクリニックのお家のベッドの上に置いたままだったから。
足の悪いお父さんが、家の北の坂道を登り、見送りにきてくれた。
そしてわたしたちの姿が見えなくなるまでずっと立っていた。
この光景は過去に何十回も、そして映画などでも飽きるほど観ているのに、胸を掻き立てられるのはなぜだろうーそんなことを思いながら、わたしは山道を登っていた。
そしてこの二日の体験がどこか他人事に思えるのは、確認しなくてはいけないことや、このことを話さなくてはいけない人がいるからで、まだわたしの仕事は終わっていないのだということに気づいたのだ。
そのあとのことは夢の中の出来事のような、幻想的な時間だった。
ビカスさんは、バッドリさんのお父さんからずっと話を聞いている。
その姿はジャーナリストが村の長老から話を聞くというよりも、友人のおじいちゃんから話を聞いている姿のようであった。
その横で、お母さんはチヤを出してくれたり、ダルバート(ネパール風定食)の準備のためにすぐ下の畑で青菜を収穫し、それを山から引いてきた水で洗い、料理に取りかかっている。
「わさび菜かな?」と言いながらその様子を興味深くわたしたちは見つめた。
よく整えられ、きれいに掃除された土の上にゴザを敷いてくれ、その上でわたしたちはダルバートをいただいた。
途中、放し飼いにしている子ヤギがダルバートの匂いにつられわたしのところにやってきた。
その子の首を持って、向こうの方へ追いやる姿だけが唯一
毅然としたふたりの態度だったのだが、あとは、そっとやわらかい仕草と穏やかな表情がとても印象的で、いまでもずっとこころに残っている。
この家の家族はちょうど朝の支度をしていた。
家の前には、土間のような、居間のような、広場のような曖昧な空間があって、わたしたちはそのヘリに座ってその様子や山間の景色を眺めたりしていた。
この家の幼い子は、お母さんに急かされながら学校に行く支度をしている。
ネパールでは子供は何歳から学校に行っても良いとのことで
親の考え方しだいだそう。(そして行かない子供もたくさんいる・・・)
そして、教科書などが入ったカバンはお母さんが学校まで届けてくれるのよ、と小川さんが説明してくれた。
隣家の子どもと連れ立って登校した後、若いお母さんが村の中心部まで穀物か何かを売りに行くための、その巨大な荷物を背負いながら、子どものカバンを持ったときは「まさか、本当に?」と思ってしまった。
その家は、傾斜地に僅かな平地を作り出し建てられていた。
隣家との土塀は、テラコッタ色―それはまさに『紫の空』の中で見覚えのあるものだった。
この家がバッドリさんのご両親の家で、上田達さんの撮った写真の家なのかにわかに信じられず、家の外観の隅々まで、なめまわすようにわたしは観察した。同じ家でないにしても、うーん、かなり似ている、そう思った。
そうこうしているうちに、お隣の子が登校の誘いにやってきた。
どうやら捜している家は、村のメインストリートを逸れた山の斜面の辺りにあるようだ。
その道すがら、風景と自然の圧倒的な強さにこころ奪われ、写真を撮ることに熱中し、前を歩くふたりの姿が徐々に小さくなっていった。
マイディ村は、いくつもの山が連なる、その頂上付近や斜面に畑や家を造成しており、村のメインストリートを軸に、山嶺に沿って延々と細く長い道、そして道沿いには家々が続いている。
遥か向こうの山肌にも、同じく急斜面を細く区切って作った段々畑の景観を臨むことができ、おそらくそこもマイディ村という名称なのだと思った。
山間のそうした村の人口は多くないのだが、村の端から端までが長大に延び、徒歩で村中を移動することは一日仕事であろうと容易に想像ができた。
いくつかあるマイディ村のバスの停車所の終点で降りたのは、正しかった。
マイディ村に到着したその日はすっかり日が傾き、急いでその辺りでホームステイできる家を捜した。そして翌日にはバッドリさんのお家を訪問し、バッドリさんの両親とその親族に会うことができたのは、この旅に同行してくれた小川さんとビカスさん(ネパール人ジャーナリスト)のお陰だと、旅が終わり暫く時間を置いてから、遅れ馳せながらわたしはようやく気付いたのだった。
そしてマイディ村は、わたしのなじみ深い長野県の戸隠村のようなものかな、と思った。
広大な山間部の戸隠村で、情報が少ないまま徒歩で一軒の家を捜すことは、たいへん骨の折れることだとすぐに理解できたからだ。
マイディ村に行くきっかけになった一冊の本がある。
『紫の空』
上田達さんが旅して撮影した海外の写真を、母である敦子さんがまとめた、やわらかな紙が印象的な本だ。
その中には、ネパール、チベット、モロッコの写真があった。
ほかの二か国は旅の途中で撮ったカットだったが、
ネパールだけ、なぜかマイディ村での写真が集められていた。
そして子どもたち、村の様子の、その背景にある緑の深さにこころ惹かれ、こんなところに行ってみたいと純粋に思ったことが、思い出される。
達さんがマイディ村に行った10月、ちょうど雨期が終わり少し経った頃のその季節は、たっぷりと成長した木々や植物が、画面からあふれるように、きらきら輝いていた。
2月、その様子は少し違ったのだが、山の上に住むひとびとの平和なくらしと、自然の美しさをわたしたちは目にすることになる。
マイディ村*は、首都カトマンドゥと、ポカラ*の約200キロの道程そのほぼ中間地点に位置する。
プチャールバザールという麓町から出発する、1日にたった2,3便のバスは、躊躇なく山道へと切り込んで進む。
子どもたちはバスの天井に次々と飛び乗り、頭の上で何度も「ドスン、ドスン」という振動が伝わってくる。
麓町から徒歩で半日、と言われた。
バスで2時間ほど行くと、雲の上の村があった。
*マイディ村―2015年のネパール大地震の震源地Gorkha(ゴルカ)から、そう遠くない。
地図から、マイディ村の標高は約1,500~2,000メートルくらいと推定される。
(カトマンドゥの標高が1,330メートル)
*ポカラ—ネパール最大のリゾート観光地。ヒマラヤの景観と湖、そして緑が美しい。
2泊3日、ハリオンでの日々。
立て続けにさまざまな出来事が身に起こり、わたしはただそこに立っているだけの人、だった。
頭の中で物事を組み立てたり、考えたり、ことばで返すということは間に合わなかったし、叶わなかった。
そんな激しい流れの渦の中にわたしはいたように思う。
ハリオンでの時間は幼年時代の体験に近いものかもしれないと、いまその時間を振り返りながら、じわじわと感じるのだ。
孤児院のこどもたちとのおだやかな時間。
不可触民とされているひとびとの住む地域でおこなわれた、
子どもたちに向けた小川さんとサパナさんによるおりがみ教室。
フェスティバルで出会った地域のひとびとと、食べたり飲んだり踊ったりした夜。
ごく僅かな滞在の日々で、一体どれくらいのひとびとと出会ったことだろう・・・。
そのことの意味や、与えられた影響―まだ消化できてはいないけれど、日本で日々を送っているうちに、すこしづつだけれど、整理できるようになってきた。
それはどうだったのか、わたしは写真に聞いているようなところがある。
写真を撮った自分がまるで別人物かのように・・・。
お祭りというのは、どこの国や地域でも似たような空気がながれているものかもしれない。
ハリオンでのフェスティバルの写真を見ていて、小池昌代の随筆中のくだり、深川の水掛け祭り*での、多感で危うい思春期のころの記述が、思い出された。
この日はだれもが、ソワソワ、ワクワクといった非日常的で特別な感情を持っても良い日—なのだろう。
*小池昌代が育った江戸、深川に古くから伝わる夏祭り。
この地域のフェスティバルの会場の中では
夕方くらいから様々な催しが行われ、子どもたちのみならず
若者や大人にとっても、それは楽しいハレの日になっていることがうかがえる。
彼女がわたしたちにチヤを出してくれ、サロージさんと話しこんでいる。
わたしたちは家の前のちょっとしたスペースで、この辺りの土地でしか見られないような果物の実を見てあれは何だろう、などと話をしながら風に吹かれていた。
彼女は時折訪れるお客さんに対応したり、わたしたちのためにサトウキビをお土産にと収穫し、運びやすいように加工してくれたりと、動き続けている。
フィルムを交換している姿を見て、サロージさんが、なぜフィルムで撮るのかとわたしに聞いてきた。
「これはモノクロフィルムで、現像からプリントまで全部自宅で出来て効率が良いから、そして大きくプリントを伸ばした時、とても美しいから」などと説明していると、彼女がじっと好奇の目でわたしを見つめ、結婚しているのかと聞いてきた。
「Yes」と答え、今度はわたしが彼女の歳を聞いた。
そしてわたしたちはほとんど同年代だということが分かった。
同じ女性として、わたしの生き方が不思議な感じがするということは、容易に想像できる。
家族のため、子どものため、人のためにずっと働く女性―そしてネパールの女性は大方そうなのだろう。。。

時折雨の降りしきる中、サロージさん運転のジープは次の集落へ。
サロージさんのプロジェクトで10年前に知り合った
もと生徒の女性の住む家へと向かう。
そこは立派な家々から成る集落で(その家は彼女の夫が友人たちと何人かで建てたとのこと)
彼女が小売店を営み、家、畑、納屋などがある、穏やかでのどかな一帯だった。