初めて撮影のために滞在した2018年の大阪から早いもので2年。まだ撮影を終えられないでいる。
今年に入ってからは、コロナ渦の中での撮影で、大阪で暮らし、働く人の心の動きのようなものを感じることができているように思う。
ずっと昔、大阪出身で東京で暮らしている人に「本当の大阪の人は品が良いのですよ」と言われたことがある。たいへん失礼ながら、そのころはメディアなどから植えつけられた一方的な大阪のイメージを持っていたわたしには、それは簡単には信じられなかった。
しかし今大阪の街を歩いていると、実感としてそのように思う。
撮影をしながらわたしはとてもゆっくり歩いている。急に止まっては撮れないし、そのようにしたら、挙動不審者になってしまうからだ。そしてゆっくり歩かないと見えてこないこともある。(1日の終わりに近づくと単に足が疲れているという理由でもあるのだが・・・)
そうすると、自転車に乗った人や慌てて歩いてきた人に必然的にこちらが道を譲ることが多くなる。その瞬間「ごめんなさい」と、やさしく、やわらかく、もの静かに言葉を掛けてくるご婦人が昨日だけでも三人はいた。
その声の発し方、タイミング、ボリュームなどが本当に素晴らしい。この方達は普段から言い慣れているのだと感じた。
大阪は、都市としてのボリュームが大き過ぎないことが、この街を「人間の街」たらしめていると、わたしは思う。
柴崎友香氏の小説の中で「大阪、この街が大好きだ」という行を目にして、はっとしたことがある。同時に、人にそう思わせる街とは一体どんな要素が揃っているのだろうか?とも思案した。
大阪市内の其々の地域性や特性を体感としてざっくりと認識でき、自由に移動できる範囲内に、この街(大阪市)の体積は何とかおさまっているとわたしは思う。丁度良い大きさの都市ーと聞くと、パリやローマの街も頭をよぎる。
そしてきっとそれは自転車でも市内を隅から隅まで駆け抜けることができるような距離感であると思う。
山や海に囲まれているため、街がこれ以上膨張することを自然の力が阻止したのだが、それで良かったとわたしは思う。
今、大阪市民は大きな過渡期にいる。
大阪都構想を進めるか反対かの選択を、市民は迫られている。
都市の機能だけが先走った街に未来はない。どうか良い部分をずっと変えないで、守っていってほしい。