河野和典さん(Studio Ray代表)に最初にお会いしたのは2011年の夏の事。私の作品TOPOPHILIAの編集をお願いに写真を観て頂いた時だ。
最初は乗り気ではなかったようでしたが、作品を観るうちに
目が輝きだし、すぐに引き受けて下さるお返事をもらう。
河野さんがTOPOPHILIAの作品を観た最初の言葉は
「一貫性があって見やすい。畠山直哉の写真のような独自の構図だ」とおっしゃってくれた。
油絵を描いたり大辻清司さんに師事していた畠山さんとは、僭越ながら、写真一本ではなく色々なことやったという意味では自分も共通点がある。
今考えればとても嬉しい言葉だった。
その後の河野さんの本作りへの情熱はすばらしかった。
本の構成に関してはほぼ100%私の意図を通してくれたが、
一点だけそうではなかった強い思い出がある。
「著者あとがき」の文章を書いて見せたところ、(河野さんにとっては)私の文章があまりにひどかったのだろう。
赤ペンで修正した箇所が無数にある原稿が返されてきた。
河野さんが頭に血が上って熱くなりすぎたのか、或いは
達筆のせいもあり、ほとんど読めない部分もあるが簡単に言えば書いたものに対して全否定だった。
それで書き直したものが実際の本に載っているわけだが、
今読んでみると取り立てて良い文章とは思わないが
「あなたが10都市を回った実感を書きなさい」という言葉だけを頼りに書いたものだ。
様々な事を一度に考えなければならないぎゅっと凝縮した時間は
本当に思い出深い数か月だった。
河野さんのような方に編集をしていただき幸運だったと思う。
河野さんからHPのリニューアルのご案内がきました。
ぜひご覧になってください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~studioray/books.html
2014/10/30
2014/10/25
ベルゲール
贈り物のプリントを作るときのために…と
ずっと取っておいたベルゲールのバライタ紙でプリントをしてみた。
ずっと取っておいたベルゲールのバライタ紙でプリントをしてみた。
予想以上の美しさに少しの驚きを覚える。
まったく同じカットを他社製品のRCとバライタでもプリントしたばかりだ。
それも悪くないのだが、もうひとつ遊び心がない。
まったく同じカットを他社製品のRCとバライタでもプリントしたばかりだ。
それも悪くないのだが、もうひとつ遊び心がない。
ベルゲールのバライタ紙は紙一枚にフランスの豊かな文化が凝縮したような表現力がある。
(残念ながらこのブログの写真では、その諧調を確認することはできません)
2014/10/23
台風一過
台風が2時間前に過ぎ去ったばかりの空は
普段とは確実に違う様相をみせていた。
もう最近はあまり撮らなくなった東京の景色を撮ろうと
外に出てみる。
ドラマチックな空と空中で重なり合った高速道路を
下から見上げると、有機的な美しさと無機的な美が調和して
胸をしめつけるように迫ってきた。
普段とは確実に違う様相をみせていた。
もう最近はあまり撮らなくなった東京の景色を撮ろうと
外に出てみる。
ドラマチックな空と空中で重なり合った高速道路を
下から見上げると、有機的な美しさと無機的な美が調和して
胸をしめつけるように迫ってきた。
2014/10/13
写真とは。
建築家の板茂さんは何十年も前から紙管を構造体とした
建築物を作ってきた。
近年は大学の学生と海外の被災地へ赴き、
紙管による仮設建築や仮設住宅を作るプロジェクトを実践して
その活動は高く評価されている。
坂氏はその中で学生に対して
「今、日本にいて建築を学んでいる環境がどんなに恵まれているかわかってほしい」と語っている。
「カルチャーショックを受けることがモノを作る原動力になる」とも言っている。
私もその言葉に大いに共感する。
海外で過ごす中で、人はさまざまなカルチャーショックを受ける。
そうすると、気持ちの中で多くのものがそぎ落とされ、本質だけが露わになっていくのがわかる。
写真を撮ることだけに神経が集中していく過程が
自然に実践されるという訳だ。
海外に撮影に行く訳はこれだけではないが、
かなり回りくどく遠回りなやり方をしてでも、
私は、本質に迫る写真を撮りたいと思っている事は確かだ。
2014/10/09
新たな風景との出会い
とても内面的に言えば
私がこれまで都市を撮ってきたのは
自己と世界との関わり方を確認する作業のような部分があった。
もっと言えば、都市写真は「自己」と「世界」との関係を問題にしてきた故に選んだ被写体だったといえる。
その関係性にずっとこだわり続けてきたのだ。
一方で自然を撮ることは自分そのものを撮ることのように捉えて
いた。
生まれてから18年間ずっと自然の中で育ってきてというもの
自己と自然とを同一のものとして認識していた。
それ程自分の中に自然が入り込んでいたのだ。
だからセルフポートレートのような作品を撮る気はしなかった。
しかしここ一年の間にその位置関係に大きな変化が生じた。
自然は自分そのものではなく、もちろん都市でもない—と。
まったく別の他者として-新しい「何か」-として
私の目の前にスッと現れてきたのだ。
それはとてもさりげない現れ方だったので
認識するのに少し時間が要った。
そしてこれは私が写真作品をこれからも作っていく上で
とても大きな出来事だったと言える。
2014/10/06
風景との出会い
何年も前、晩秋のベルリンの公園でカエデの落ち葉が
雪のように地面に積もっているのを目にした。
あまりにも綺麗だったので拾い集めていた。
その私の姿を、もの珍しそうに見ているご婦人がいた。
モスクワのホテルでは、昼間拾い集めて窓辺に並べておいた
美しい落ち葉を、ルーム係のおばさんがゴミだと思って見事に
捨ててしまった。
それ以来、気に入った落ち葉は本やノートの間に挟んで保存するようにした。
自然をこのように愛でる感覚は日本人ならでは・・・
と聞いたことがある。
美に関しての感覚は日本人は独特のものがあると
欧米に行くとかなり強く感じる。
それ故に、受け入れられることもあれば
理解されない場合も多々あるのだ。
2014/10/01
風景との出会い・人との出会い
フランスの田舎町、ヴィトレに行った写真を見直してみた。
あれはもう一年近くも前になる。
「大都市と地方都市について」の作品には直接掛かってこないが
思い出深いカットが見つかった。
これらは人と話しながら・・・あるいは人が近くにいる時に
撮った写真ばかりだ。
旅の中で出会う様々な場面は
自分以外の誰かが介在することで
より鮮明でなつかしい記憶になりうるからとても不思議だ。