ハバナでおどろいたのは、街中でいつも誰かしらヒッチハイクをしていることだ。
車の運転手は行先が合えば人を乗せるし、乗る人もそれが当然だと思っている。
ヒッチハイクで通勤している人も多いと聞いた。
ハバナはスペイン語でLa Habana(ラ・アバーナ)と呼ばれ
キューバ共和国の首都、カリブ海最大の島である。
わたしが訪れた8月17日からの10日間は一年でもっとも暑い季節、髪も眼も肌もじりじりと焼かれ、太陽の近さを実感として感じた。
この島はカリブの真珠と呼ばれている。
そしてひとびとは、強くしなやかなその肢体は輝きを放ち、わたしの目を休ませなかった。
5ヶ月置いた今、わたしが切り取ったハバナを振り返っていきたい。
この旅で、はじめてわたしはラテンアメリカの地に足を踏み入れた。
帰国して、思いがけずメキシコ在住のアーティスト
*矢作隆一氏の個展が11月に東京であり、観に行く機会を得る。
そして8月にメキシコでお世話になったセレステ・ウレアガさんの来日と再会、彼女の展示に関わることで、多くのことがラテンアメリカと日本の間で繋がっていくような感覚をおぼえた。
メキシコシティでの撮影を振り返ってみると、撮りにくさ、撮影の難しさを改めて感じる。
それ故写真に表出されてくる事柄もあるとは思うのだが、
都市の闇の部分をこれほど感じさせる街を、わたしは他に知らない。
反面、メキシコ人の陽気さと穏やかさが際立ち、彼らの優しさや明るさが私の旅を支えてくれたことは間違いない。
*矢作隆一氏
メキシコ・ハラパ在住の彫刻家。
矢作氏の個展「再-futatabi」は創形美術学校(豊島区西池袋)のガレリア・プントで行われる。(2017年11月4日-18日)
今回の展示は、国が定めた新規制基準に基づく審査を経て初めて2015年8月11日に再稼働を始めた、九州電力川内原子力発電所の付近で採集をした石と、その模刻作品をそれぞれ展示したもの。
沈黙する石、そこに込めた矢作氏のメッセージはたしかな響きとなって伝わってくる。
来日時矢作氏は、広島平和記念公園を訪れ、メキシコの大学生たちが作った千羽鶴を捧げた。
(以下、中国新聞より)
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=77874
メキシコ人の、すこし優柔不断な面、何か強く言われたらしたがってしまう場面を実際に何度か体験し、また、目撃したこともある。
それは、国民性といえるようなものなのかもしれない。
その部分、わたしにはとても好感が持てた。
メキシコシティの地勢、
そしてここで暮らすひとびとのようすをファインダー越しに見続けて
今わたしは、かれらをもっと知りたいと思うようになった。
はたしてこの都市は—
どんな場所なのだろう・・・
日々謎は深まっていく。
ことばとおとはなく
あるのは光とにおい、そして空気や風の感触だった。
下町は、都市の中における溝のような部分だとふと思った。
だから影もあれば死角もできる。
-そして溝だからこそ、水が流れる。
滞在して肌で感じたメキシコシティ というのがある。
一方で、少しずつゆっくりと立ち上がってくる写真によって
今は、あらたなメキシコシティが出来てきている感覚だ。
ある街があり、ただそこに人が歩いている、それだけのこと—
それを写真に切り取ることで
何か大事にするべき、価値あるものに形をかえる。
写真の真の面白味は、そのあたりに隠されているのだろう。
一見不自由とも思われるRZの大きさや重さ、かまえる位置を逆手にとり、
相手に気が付かれないように、違う方向を見てシャッターを切る。
ノーファインダーの撮影をここまで駆使したことは初めてだった。
それくらいメキシコシティは、写真を撮ることを遠慮させるような空気が漂っている。
がちゃがちゃした下町の様は
人間味と懐かしさに溢れている。
予期しないような絵が撮れたとき
次に向かっている、わたしが時間という流れの中にいる、
という気がする。
父の若いころの目になったような不思議な気持ちで
出来上がったプリントを見る。
国も時代も飛び越える一枚・・・。
ーメキシコシティらしさー
なぜかこの写真にそれをわたしはつよく感じる。
フィルム現像、ベタ焼き、セレクト、テストプリントという複数の工程を経ることにより
あの日、あの場所でわたしが感じていたことや、感触が
ほかの多くのものを引き連れて、徐々にゆっくりと浮き上がってくるようだ。
ひとつの写真作品をつくりあげることは、
醸造する作業に近いのでは、と最近思い始めている。

2週間での滞在で、メキシコシティがわたしに近付いてきた。
実際に(何年か)暮らしてみたら、この街の景色はどんなふうに見え方が変わっていくのかなと、何度も自然に想像することができたから・・・。
温暖な気候、湖を埋め立てて造られた都市、
まじりあった血、楽観的なひとびと。
この都市を貫くものは何だろう。
撮った写真の中から時間を遡ってメキシコシティへ。
もういちど、夢の中で再会するように
わたしは何度でも旅にでる。
メキシコシティの町に、人に、わたしは何を見ていたのだろうか。
写真によってすこしずつ明らかになることがある。
その内容に触れ、はっとすることもあるのだが
それはずっと前から、すでにわたしの中に在ったもののように思える。
フィルムで写真を撮ることは、未来の自分に託す手紙のようだと思った。
像が潜める時間は、長い時で一年もそのままのときがある。
出来てきたネガを見て、過去をすこし距離をもって眺めたり、写真を感じる目に変化をおぼえたりする。
まったく変わらない感覚を、しっかりかみしめる時もある。
その時間が厚みとなって、それに助けられるようにわたしはまた手紙の続きを書き始める。

わたしはこれまでいくつかの都市で、ストリートを撮ってきた。
パリでは人の佇まい、中国ではもののつくりだす影、
そしてこの都市では、人々の目を見ていたように思う。
こちらが彼らに頻繁に見られるから、ということもあると思うのだが、なめらかな褐色の肌に
(目の)白の部分がたおやかにうかび上がる。
じっと見入ってしまうような、
ひきつけて離さないような力があった。
目の奥がやさしい、と感じるような人もたくさんいた。
突然わたしの目が勝手に動き出す。
かれらは何をしているんだろう・・・と。
こちらの想像力を膨らませてくれるような街角や、人々が見たい。
うまくゆけば写真におさめたいという一連のこころの動きは
いつでもある。
ゆっくりと進むか、ギアチェンジをして加速するかは、その都市をふらふら歩いた時の感触できめていく。
メキシコシティでは、ストップをかける別の力をかんじていた。
メキシコシティ、
日本からは地球の反対側の国、
その国や人のことを大切に思うように
まだ訪れたことのない国や人にも、おなじように思えますよう。
世界平和を。