2014/04/30

OKINAWA April2013

       サヨナラOKINAWA


 
 那覇での最後の夜を遅くまで映画館で過ごした翌朝は
東京に戻る日だった。
 空港に向かうのは昼過ぎで良かったので、那覇高校の裏に
位置する宿から朝8時、カメラを持って出る。

 近所の薄汚れた鉄筋造りのアパートの階段ホールに吸い寄せられ、ひたすらシャッターを押し続ける。
 フィルム1本を撮り終えハッと我に返った。
 その後も公園の木々と空を延々と撮り続けたりと、何かに憑りつかれてしまったような自分がいた。
 (後に東京に戻ってから思ったのは、沖縄の迷宮に迷い込んでしまったのかもしれない・・・と。)

 沖縄に来たのは、写真を始めたばかりの気持ちに戻りたいと
願ったからだ。
それで18才の時初めて手にしたカメラ・・・35mm判カメラを、16年振りに使って写真を撮ってみる。
 しかし沖縄で過ごした数日間で、私は別の、沖縄の迷宮という深みに入り込んでしまっていた。
 先が見えず初心に戻りたいと願う私・・・。そして沖縄の
迷宮・・・。それらが二つ重なってしまった。

 ちょうど1年経った今、沖縄でのこと、1年前の自分を冷静な目で見ることができる。
 
 そして今は、被写体をとらえ、それを感じるやわらかい心と
「こう撮りたい」と思う冷静な気持ちのバランスが、ようやく自分に戻りつつある。

 その証拠に、また沖縄を訪れたいと思い始めている。











2014/04/23

OKINAWA April2013

                  

         OKINAWA

  那覇 Ⅱ


 ふたたび那覇へ。
  辺野古から70~80キロの距離を、往路と反対の東ルートで南下した。
 宜野座、うるま、コザ、普天間、首里、そして那覇へ・・・。
 沖縄のバスは長距離と路線バスを兼ねており、沖縄中部や南部に近づくにつれ、乗客も
停車回数も増えてきた。

 一般道を走るバスの車窓から見た沖縄の街の印象は、ビーチと米軍基地と古い褪せた民家の壁、そして貧しさと混沌が島全体を包んでいた。
 その混沌の先には、行き場の無い怒りのような感情の塊が、街に体現されていると
私には感じられた。
 ―都市とは人間、人間とは都市―とは、本質をよく言い当てた言葉だと思う。

 昼過ぎに那覇の宿へ戻った私は、外に出たい気分だった。
 宿から歩いても20分足らずの場所にある、牧志の桜坂へと足が向いた。
 (細い坂道の桜坂には桜坂劇場というミニシアターがあり、カフェや雑貨店や陶器のお店が入っている。本を読んだり書  き物をして、何時間でも過ごしたくなる居心地の良い場所だ)

 ここへ来て、ふと映画を観ようかと思いつく。

 津波(つは)集落で過ごした一日、名護市での一晩、そして先ほど辺野古で過ごした朝の僅かな時・・・それらの3つの時間軸があまりにも異次元に感じられ、完全に私の頭の中は混乱していた。
 映画を観ることで、その混乱を鎮静化させたかったのかもしれない。
 映画の世界にどっぷりはまって、この二日間の体験を保留にしたかったとも言える。

 さんご座カフェで熱いコーヒーを飲みながら、映画が始まるのをゆっくり待つことにした。

 しかしその保留期間が一年にも及ぶことは、その時はまったく予想していなかった。






2014/04/20

OKINAWA April2013

                           OKINAWA

 辺野古へ


 2013年4月14日、沖縄県名護市辺野古へ行った。
 沖縄バス77番の始発(5:25分)に乗り込み、名護東線で東シナ海側にある名護市街から
太平洋側の辺野古まで僅か30分足らずだ。
 起伏の激しい山道を乗り越えて暫く行くと、高い有刺鉄線の張られた道が何キロも続く。
 私の中に緊張が走る。米軍基地が両サイドにあることは間違いないが、視界は山や木々で遮られている。
 段々基地中心部にバスは近づいてきた。
 名護から向かうと、第二ゲート・第一ゲート・第二辺野古・辺野古の順にバス停の名前が付けられている。
 私は第二辺野古で下車することに決めていた。

 バスを降り、バス停から山手の方へ続く道の間には、沖縄のオーソドックスな民家が並び
これといって何の変哲もない。
 坂道をどんどん登っていくと、道路が碁盤の目に整備された住宅街にでる。
 この辺りから少しづつ、かつてアメリカ兵の歓楽街だった面影のある建物や、
廃墟同然になったバーや飲食店の光景がちらちら目に入ってきた。

 空は暗く、弱い雨が降っている。それが、そこの雰囲気を一層どんよりしたものに見せていた。
 少しづつ写真を撮りながら、基地と海に挟まれたその地区を徘徊していると、行き止まりのところまで来た。この家の裏はフェンス一枚隔てて米軍基地だ・・・という一角の前まで辿り着いたのだ。
 この時、異様で重苦しい空気は最高潮に達した。
 そして7:00am。予想もしなかった事が起きた。アメリカ合衆国国歌が大音量で流れ始めたのだ。もちろん米軍基地内部の人間のために流しているのだが、実際そのスピーカーはこの家の頭上にあるのだ。

 どんな気持ちで毎日を過ごしているのだろう・・・と思った。

 沖縄ではまだ戦争は終わっていなかった。
 というより、敗戦国として支配される側の、つづきのストーリーが待っていたのだ。
 沖縄返還の年の1972年に私は生まれた。そのことで沖縄に縁を感じていたが、そんな話は一笑される位の深刻さと、重さと、現実がここにはあった。

 キャンプ・シュワブのある辺野古崎のビーチを断崖の上から見下ろすと、灰色の空と太平洋が広がっていた。


















2014/04/18

OKINAWA April2013

                       OKINAWA


 津波(つは)集落へ


 今日の目的地は沖縄本島の北西部にある小さな集落だ。
 そこは名護から更に20キロほど北上し、東シナ海と国道58号に面した津波(つは)集落と言う。
 
 那覇から西周りのバスで本島を北上すること2時間弱、名護バスターミナルに到着。
バスターミナルのコインロッカーに必要ない荷物を入れ、そこの売店で買ったサーターアンダギーを食べながら次のバスの時間を待つこと30分。そして再びバスに乗ること約45分。

 朝7時前に那覇のバスターミナルを出発してから、午前10時過ぎにはあっけなく着いてしまった。
 春のやや強い日差しの中、私はゆっくりと歩きだす。
 ここは、沖縄の古い素朴な民家が残る、数少ない貴重な集落ということで、興味を持った。
 ―海岸、国道、集落、そして山―という順でその土地は形成されている。
 海と山が接近しているため、どうしても集落は海岸に沿って長く延びる形になる。
 
 そこは、立派な瓦屋根を持つ沖縄の伝統的な古い民家が密集していた。
車が一台通れるかどうかの細い道を、塀沿いに歩きながら見渡すと、木々が青々と茂っている。
 フクギの木と言って、沖縄ではポピュラーな防風林との話を聞く。
真っ直ぐに伸びること、幹が丈夫、葉が密になっていることから、防火林としても役立つらしい。

 集落の中をヒタヒタと慎重に観て回るが、時折子供たちに出くわす位で、人は殆ど歩いていない。
まるで世の中から取り残されてしまったかのようで、ここでは時が止まっているのだろうか・・・。

 途中、国道沿いに戻ると、おじい達が交通安全週間のための白いテントの中で座って談笑している。何回目か私が通り過ぎた時呼び止められた。お茶やバナナ、沖縄の伝統的なお菓子を戴く。
 沖縄ではお祝いの席で食べるという紅白のそのお菓子は、落雁のような見た目と味だ。
 そして、フクギの木が立派な家がすぐ近くにあるから、行ってみなさいと言う。
 ここでは格のある家の象徴として、フクギの木が立派に家を囲んでいるというのがポイントになるようだ。
 
 フクギの木と瓦屋根の民家の集落で悠久の時を感じながら過ごし、夕方には元来た道をバスで名護に戻る。


 




 

 















2014/04/15

OKINAWA April2013

                               OKINAWA

那覇Ⅰ


 沖縄は私のトポフィリア*だ。

 1年前のちょうど今日、私は沖縄にいた。
 5泊6日の(沖縄)本島のみの一人旅だ。
 20年振りに沖縄に来てみたかったのは、全部白紙に戻して自身の原点に立ち返りたいという
思いに駆られていたからだった。

 しかしそれは後に見事に打ち砕かれることになる。

 同僚で画家の十三生クンから、那覇の情報を色々聞いてきた。
 撮影ポイントとして「農連市場」や「栄町市場」を勧めてくれたのは、地元の人しか行かない場所なので、那覇の人々の生活が見えるからという理由だ。

 「農連市場」は那覇市街地の南東にあり、野菜や魚や乾物や肉や食料品そして花き等を売る市場だ。
 店というよりは、それぞれが売り物を地べたに並べたり段ボール箱の上に並べ、持ち寄りを売っている、といった様子。市場の中には、売り物を前にお店の人がポツンと座っている。
 飾りがない、無駄がない、そして何より質素だった。

 観光客がそぞろ歩く大通りを避け、静かな裏道や路地を選んで歩く。
 目に飛び込んでくるものすべてが新鮮に映る一方で、何だか空気がぼわーっと膨張して、
全体に色あせたフィルターがかかっている様に感じる。
 まだ決して暑い季節ではないのに、南国独特のモワッとした空気が、私の五感を鈍らせていく。

 那覇の民家の壁は、風雨に晒され、薄汚れ、剥げかけている。
 石造りのキューブの建物も、コンクリートブロックの建物も、伝統的な瓦屋根を持つ民家も、嵐や雨に打たれ、ひたすら耐えてじっとそこに居る・・・そんな造りと雰囲気を醸し出していた。

 今思うと、沖縄の人々の姿が住居の姿と重なって映るのだ。

 ピカピカの建物に目が慣れている東京人の私には、那覇の裏通りは、かなりの異国情緒が感じられたのだった。
 そして「どんな写真を撮ったら良いか・・・?」という冷静な思考はたちまち消え、ただひたすら歩き、少し躊躇しながらもシャッターを押し続けたのだ。 (続く)
               
               *トポフィリア・・・ここでは「愛着のある土地、憧れの土地」という意味合いで使っています。






2014/04/12

雪の日の思い出

              
 雪の日の思い出

 雪の日の鮮明な思い出はもう30年も前に遡る。
 
 10才前後かそれより前の記憶が、なぜかいちばん鮮明だ。
 朝、野沢菜を取ってくるよう言われ、野沢菜の漬けてある家の外の桶に行くために
勝手口の木のドアを開ける。
そこには、ピンと張りつめた冷気とともに、ほわんとした圧倒的な白い世界が広がっている。
 あまりに積雪が多いと、これから仕事に出かける両親の少し慌てた雰囲気が伝わり
子ども心には、何かが起きそうな予感で、少しワクワクしたものだ。

 実家の隣はリンゴ畑だった。
斜面に作られた小さな畑は我が家とは何の仕切りもなく、まるで庭のように気軽に踏み込めた。
物心がつく年ごろまでは、リンゴ畑に入っては、よく遊んだ。
 
 雪の積もったリンゴ畑は、子供にとっては恰好の遊び場に変わる。

 リンゴの木と木の間に作ったコースでソリ遊びをして何度も何度も滑る。
斜面の角度もコースの長さも丁度良かったし、何より家まで30秒もあれば帰れるというのが
ポイントだった。

 あんな楽しい遊びは他にはなかったかもしれない。
今でも子供のころの楽しかった記憶として、しなやかによみがえってくる。














2014/04/06

内野雅文回顧展・新潟市

とどまらぬ長き旅の・・・
           
内野雅文写真展/砂丘館 ギャラリー(蔵)ほか/
19,Nov-15,Dec,2013/新潟市

  2008年1月1日、大晦日の京都で撮影中に倒れ、34歳で亡くなった写真家、内野雅文さん。
  彼の回顧展を観るため新潟を訪れたのは、2013年師走。

  遺作「KYOTO」のシリーズを始め、人々や風土を35ミリ・モノクロームで追い続けた「うりずん」
「東京ファイル」、カラー写真の「車窓から」
 そして彼の代表作でもあり、問題作とも言える「ケータイと鏡」
 これらの作品が、*砂丘館の味わいある日本建築の部屋の中―床の間や廊下にひっそりと
しかし確かな光を放ちながら展示されていた。
 動線の一番奥まったところにある「蔵」を改装したギャラリーには、大きなサイズの作品や、シリーズものがまとまって展示されている。
 内野さんが東京造形大の在学中に撮った写真は、古いものでは、私は20年振りに見るプリントで、懐かしい。
 阪神淡路大震災のあった年、私たちは大学3年の冬だった。
 「被災地をどう撮るか?」と彼は模索したのち、4×5のリバーサルで被災地の中心から少し離れた小さな町を選び、丹念に記録した写真は力作だった・・・。
 あの時分(私は)彼には4×5の撮影スタイルは合わないと思っていたが、今見るとそうでもないな・・・などと勝手な感慨にふける。

 今回の展示は、清里フォトミュージアム所蔵のプリントと、石井仁志さん(企画ディレクター)が直接預っていたプリントから構成され、シリーズによっては、点数不足のものもあった。
 しかし砂丘館本館と「蔵」の変化に富んだ空間を利用して、展示はうまくまとめられていたと思う。
 内野さんの写真を何より大事に思う石井仁志さんと、大倉宏さん(砂丘館館長)の温かい眼差しが伝わってくるような作品の配置、構成になっていた。

 内野さんの死から丸5年が過ぎた。
 彼の死は本当に遺憾だ。でもこうして新潟の地で彼を知らない多くの人が写真を観て、考え、その写真とともに時を過ごしている。
 
 この日(12月7日)は「蔵」のスペースでギャラリートークがあった。
 2階の会場は「KYOTO」のモノクロ写真の作品で埋められていた。
 「ストリートスナップショットをめぐって」というテーマで、この展覧会の企画者である石井仁志さん(20世紀メディア評論・メディアプロデューサー)が、松沢寿重さん(新潟市美術館学芸委員)と対談し、進行役を甲斐義明さん(新潟大学人文学部准教授)が務める。
 主に新潟出身の写真家、牛腸茂雄さんの写真論とスナップショットについて話は終始したが、後の質問コーナーで客席にいた新潟大学人文学部の教授で*総合プロデューサーでもある原田健一さんから「もっと内野さんの写真の背景について語ってもよいのではないか?」との意見が出たが、それは正しいと思った。
 会ったこともない若い写真家の作品を観て、それについて論じろ、というのは専門家とはいえども難しい事なのではないかと思う。更にはギャラリートークなどの公の場において、軽はずみな発言もできないという気持ちも分かる。
 しかし、内野さんの回顧展の空間でのギャラリートークなので、もっと彼の作品について触れるべきだと思った。論じるなどと形式的な事でなくて良いから・・・。

 このような内容のギャラリートークであったが、全体にはとてもレヴェルの高い、内容の濃い写真論に終始したと思う。三人の方がそれぞれの立場で話し、個々の写真に対しての情熱を感じることができた。

 内野さんも会場の隅で聞いていたと思う。






*砂丘館は戦前の日本住宅で、旧日本銀行新潟支店長役宅として使われていた。
約15年前に新潟市が取得。10年ほど前に芸術、文化施設としてスタートしている。


*この展覧会「内野雅文写真展・とどまらぬ長き旅の・・・」は2013年“にいがた地域映像アーカイブ
クインテット”という名称で、―新潟大学人文学部、新潟県立生涯学習推進センター、新潟日報社、
砂丘館、新潟市歴史博物館みなとぴあ―これらの主催で、新潟市内5ヶ所の展示施設で連携して写真の展示や映像、そしてシンポジウム等が行われた。(2013年11月~12月)
内野雅文さんの回顧展はその企画の一つとして石井仁志さんによって企画され、
砂丘館で展示された。
                           (総合プロデューサー:原田健一さん、石井仁志さん)





















     

2014/04/01

冬の旅 2014

冬の旅           ―道東そして道央へ―



縁あって、この冬2度北海道の雪の撮影をする機会に恵まれる。

自然の風景を撮ること。
人と撮影に出かけること。

これまでの人生で敢えて積極的にしてこなかったことを、冬の十勝でいっぺんに経験してしまう。

そして「楽しい・・・!」と感じる自分に気づく。

零下20度の寒さ、目の奥が痛くなるほどの雪の白さ、そして人の温かさを感じた旅でした。



                                                                                   
                                                                                                                                                    

                                                                                                                           






冬の旅 戸張良彦さんの展示(道立帯広美術館)





冬の旅     道東そして道央へ

in the LIGHT
in the SHADOW

 2月初め、戸張良彦さんの作品を観に北海道立帯広美術館へ行く。
in the LIGHT in the SHADOW”というタイトルで7人の造形作家が立体や平面それぞれの表現方法で空間を埋めているが、個人のブースは広い。
個展会場が7部屋あり「光」と「影」というキーワードで繋がっている、といった印象の企画展だった。

戸張さんの作品は順路では1番最後の部屋、どの部屋よりも明るく、広いように感じた。
モノクロームのかなり大きな作品(100×150)が8点。壁面にぐるりと観客を取り囲むように展示されている。
カラーの正方形の写真(60×60)が少し高さのある台の上に地面と水平に、上から下へ目線を落として見るような形で、空間の真ん中に展示されている。(すべて水面の写真で、水面を覗き込む時と丁度同じような状態に作られている)その台は六角形を形作るように並べられていて、宇宙や自然の神秘を感じさせる幾何学的な配置だな、と思った。

モノクロームの8点の作品に関して、まずはこの作品の放つ美しさと潔さ、そして大らかさに心を打たれた。
海や河や森や湖といった十勝の風景を題材に用いながらも、地平線や水平線、山や雲の稜線といったラインを、様々な角度からの目線で変化をつけつつ、画面上には水平に持ってきている。
意図的にかなり荒くした粒子の画面は、その水平のライン―境界線の重要度をより際立たせていて、更にそのことは作品を抽象化、普遍化させることへも繋がっていると思う。

戸張さんにとって、被写体がどんなモチーフでも良かった訳ではない筈だ。
この地に暮らし十勝の自然を見続け、写真を撮り続けたからこそ生まれた作品だと感じた。
思考し続けることの大切さを学ばせていただいた。



そして同じ写真を志す者として、ずっと記憶に残る展示、そして忘れられない作品だ。

                             


                     帯広美術館企画展最終日、戸張さんの展示室で。戸張さんは左から4人目

                                         戸張良彦さんHP         www.y-tobari.jp