OKINAWA
辺野古へ
2013年4月14日、沖縄県名護市辺野古へ行った。
沖縄バス77番の始発(5:25分)に乗り込み、名護東線で東シナ海側にある名護市街から
太平洋側の辺野古まで僅か30分足らずだ。
起伏の激しい山道を乗り越えて暫く行くと、高い有刺鉄線の張られた道が何キロも続く。
私の中に緊張が走る。米軍基地が両サイドにあることは間違いないが、視界は山や木々で遮られている。
私の中に緊張が走る。米軍基地が両サイドにあることは間違いないが、視界は山や木々で遮られている。
段々基地中心部にバスは近づいてきた。
名護から向かうと、第二ゲート・第一ゲート・第二辺野古・辺野古の順にバス停の名前が付けられている。
私は第二辺野古で下車することに決めていた。
バスを降り、バス停から山手の方へ続く道の間には、沖縄のオーソドックスな民家が並び
これといって何の変哲もない。
坂道をどんどん登っていくと、道路が碁盤の目に整備された住宅街にでる。
この辺りから少しづつ、かつてアメリカ兵の歓楽街だった面影のある建物や、
廃墟同然になったバーや飲食店の光景がちらちら目に入ってきた。
空は暗く、弱い雨が降っている。それが、そこの雰囲気を一層どんよりしたものに見せていた。
少しづつ写真を撮りながら、基地と海に挟まれたその地区を徘徊していると、行き止まりのところまで来た。この家の裏はフェンス一枚隔てて米軍基地だ・・・という一角の前まで辿り着いたのだ。
この時、異様で重苦しい空気は最高潮に達した。
そして7:00am。予想もしなかった事が起きた。アメリカ合衆国国歌が大音量で流れ始めたのだ。もちろん米軍基地内部の人間のために流しているのだが、実際そのスピーカーはこの家の頭上にあるのだ。
どんな気持ちで毎日を過ごしているのだろう・・・と思った。
沖縄ではまだ戦争は終わっていなかった。
というより、敗戦国として支配される側の、つづきのストーリーが待っていたのだ。
というより、敗戦国として支配される側の、つづきのストーリーが待っていたのだ。
沖縄返還の年の1972年に私は生まれた。そのことで沖縄に縁を感じていたが、そんな話は一笑される位の深刻さと、重さと、現実がここにはあった。
キャンプ・シュワブのある辺野古崎のビーチを断崖の上から見下ろすと、灰色の空と太平洋が広がっていた。