2020/05/19

庭で

朽ち果てる前の何とも言えない哀愁、時が落ち葉のように積み重なったぶ厚い何か、それさえも脆く崩れてしまいそう・・・・・。
物事が終わりを迎えるその少し前の、燻し銀の哀愁ーそんな言葉が浮かぶ。
そして芭蕉の世界観がスルリと目の前を通りすぎるような感覚を持つ。
我が家とその庭を見ていると、いつもそのような気持ちが沸いてくる。

現在読んでいるメイ・サートンの『海辺の家』には、国と時代が違えど、このように捉えてくれる人がいるのだという嬉しい発見の行があった。

12月10日の日記より
メイ・サートン『海辺の家』(武田尚子訳 みすず書房)

私は長いあいだ、心を強く引きつけるニューイングランドの大きな魅力の一つは、農村地域の威厳ある貧困だと感じてきたのだ。

はじめて、ネルソンの「甘美な格別にひなびた情景」がむしょうになつかしくなり、ノスタルジアの鋭い痛みを感じた。

古い家を少しずつ直しながら、(時には業者さんに入ってもらい)夏に向けて伸びる植物達と追いかけっこをするように、わたしは毎日庭仕事をしている。

(リルケが言うように)木は誰が見ていなくても春には新緑、そして夏には葉を大きく繁らせ、太く、高く成長していく。
石は、表面が少しだけ削れたとしても、何十年も変わらない威厳と存在感を発している。
シダ植物のまっすぐで凛とした美しさは、驚くべきものだ。太古、地球はシダ植物の時代が長きに渡って続いたことを理科の時間に習ったことを、ぼんやりと思い出す。
そして40年程前に植えたと思われる球根植物も、春になると決まったように咲いてくれるという発見は、こわばっていたわたしの心を柔らかくしてくれることに、大いに貢献してくれた。