2019/09/08

ロバート・フランク展―もう一度、写真の話をしないか―


まずはロバート・フランクに謝罪を。
このところわたし自身が写真を考える際に大きなウエイトを占める鈴木清の写真と比べて、どうあっても西洋の構造主義、構成主義を壊したとしても、アジアの無秩序的な混沌とその破滅の様には到底叶わないと先入観で思ってたが、その考えを撤回します。
(少なくとも今日の展示を観る限りでは・・・)

ロバート・フランク氏の23歳から38歳までの15年間の作品がまとめられた展覧会を、清里フォトアートミュージアム*で観た。
「15年間、アメリカ、南米、ヨーロッパを旅し、模索と挑戦を重ねた若き写真家の歩みと眼差しを辿ります」と、チラシの紹介文の最後は締めくくられている。

目にしたことがある写真もあるのだが、この展示では初めて取り上げられるようなものの方が多かったような印象がわたしにはあった。
写真家にとっての新しい世界への感触と初々しい眼差し・・・・・
その中にあっても、安定を良しとしない、常に模索を続けるロバート・フランクの姿が〝目″の記憶ではなく、別のどこかに宿った。

帰宅した後、ロバート・フランクの写真の絵面(えづら)を、殆ど落としてきてしまったことに気づいた。
どんな写真展だったか、気になった写真や好きな写真は頭の中で思い出しては、そのことを考えたりするものだが、
絵面が殆ど浮かんでこないということはどういうことなのか?

それほど記憶力は悪くない筈なのだが、あんなに静かな環境で穏やかにゆっくりと鑑賞したのに・・・。

展示会場内の作品の下のキャプションの文章の中に、フランクの写真行為に対して「直感」という言葉が繰り返し当てられていたのが印象的だった。
ロバートフランクは、「直感の写真家」ということに、どうもなっているらしい。

しかし直感というのは、子どもでも動物でも持っているものだ。
むしろ子供や動物たちの方がそれを兼ね備え、能力はずっと高いのではないだろうか。

ロバート・フランクの「直感」は、経験があってこそ、のものに違いない。
そして、フランクが(というか多くの写真家も直感で撮っているのだが)直感の写真家だとしても、
フランクは「直感的に外している」とわたしは言い換えたいと思う。
構図や全体感がうまくおさまり、決まり切ったような写真は撮らないし、選ばない。
へんてこりんな空虚感、抜け殻のような後味、緩められたネジ・・・言い切るような強さや、安定した画面への姿勢が、どこにもない。

世の中の片隅にあるのも、片寄り、ズレのようなもの、襞、余白などを、常に画面上に出し続けている。
そしてそれがこの展示の根底に流れているとわたしは感じた。

彼が見せたいものは、画面上の秩序とか整えられたもの、或いは目をひくようなものではない、ということが分かってきた。
それが、わたしが今日観たフランクの写真を思い出せない要因のひとつでもあるのかもしれない。

そして「自身のこころの震えに反応している写真家」と、ひとつ補足をしたいと思う。

*清里フォトアートミュージアム
 ロバート・フランク展    もう一度、写真の話をしないか。       6/29-9/23,2019


                                                                                                                 Osaka,2018