2019/11/09

写真のこと、そして日々。(11)


家屋を含めた220坪ほどの敷地の庭の手入れをしていると、日々色々なことを感じる。
雑草が生えると手間だとか、荒れ地になって大変だというのは常識的でごく一般的な考え方ではある。

しかし庭と付き合っていると、どうもそう思えないことが多々あって、〝草″についてのアウトローな感慨が草を刈るその最中にも幾つもの泡のようになっては浮かんでくる。

雑草は切ったり抜いたりして退治するもの―その常識さえも疑わしく思うのは、ヨモギ餅が大好きだからーいつか手作りしてみたい、だからヨモギの葉は、本当は抜きたくない。他にも役立ちそうな草が結構生えている。
そして人間(父母がかつて植えたであろう)が植えた植物はそのまま残し、そのどちらだろう・・・?と判断しかねる草の前ではうーん・・・と悩んで手が止まってしまうことも暫し。

そして今、この庭は一体誰のための庭なのだろうか、なぜ草刈りをしているのだろうか・・・という疑問にまで辿り着いている。



東京で写真作家として活動していた糸井潤さんが木こりに転職し、その仕事の様子を撮った写真展を今春品川で観た。
その挨拶文の中に、とても印象的なことばがあった。

かつて糸井さんがフィンランドで一年間アーティストインレジデンスで滞在し作品を制作していた際のこと。
森が皆伐された平原を見て悲しいと感じた糸井さんがそのことをフィンランド人に伝えたところ、何を言っているのだとあきれた顔で返されたという。
「再生可能」「持続性」ということが森には当てはまると知った―ということだ。

自然に対してのひとの価値観は、本当に多様だ。そして人種や民族によっても異なるのだろう。

その中でも日本人は、とりわけ自然に親しむこころが細やかなのだと思う。

庭の手入れをする中で様々な葛藤や疑問を抱きつつも、草や木と戯れながらそのことを大切にしたい・・・とわたしは思っている。

[糸井さん、写真展挨拶文より抜粋]
木の枝ひとつ折る事、木の幹を傷つける事を悪しき事とする、ボーイスカウトの自然愛護の教えが少年時代から身に付いていた。そして、撮影をしつつ北欧の森の中をさまようなか、皆伐され切株で埋め尽くされた平原に出会った。その出来事を悲しいと感じたと、フィンランド人に伝えたら、何を言っているのだ、とあきれた顔で返された。「再生可能」、「持続性」という言葉が森に当てはまると知ったのは、そこからだった

[今春の糸井潤さん写真展案内URL]https://cweb.canon.jp/gallery/archive/psj-tokyo2019/index.html




                                                                                                                                                                              Osaka,2018