2017/06/17

展示を終えて


今回の展示期間中、4人の写真家とトークセッションをしました。
写真を言葉で語る必要はあるのか?という意見もありましたが、私は敢えて映像を言語化するという事をしたかったのです。

今回の展示作品の中で行きつく果ては羽田の水際の写真です。ではなぜこの場所が私は気になったのか、拘って撮ったのか、行きついたのかが、展示が終わってからもずっと自分の頭の片隅にありました。

19~21歳ころ、大学にはあまり熱心に通わず、真剣に作家活動をしていました。私は絵(抽象画)を描いていて、線や円柱を様々な表現で延々と描いていました。
今考えますと〝形と色″〝線″〝境界線″に対する問題を、その当時絵画によって追求していたのだと思います。
今回の羽田の水際の写真は、過去に絵画でやろうとしていた平面における境界線への純粋な追求が露出していると思います。
(繰り返し同じモチーフを描き続けることは、TOPOPHILIAの仕事にも共通する手法です)

もうひとつは、私が他者(社会)に向かう時の立ち位置の問題です。
今回の水際の写真は、地面と水面が対角線上に切られ、そのキワ(せめぎ合い)の状況は写真によって様々ですが、だいたい半々の面積が取られています。
私が望む社会に置かれた自分の場所-即ち私が問題としたいことが、内側に籠ることではなく、社会の中へどんどん入っていくことでもない、ちょうど向かい合っているまさにその瞬間を常に選び、立っていたい-抽象的な概念ですが、私には他者(社会)に対してずっとそのイメージがあります。
その概念が、今回の羽田の水際(特に地と水の面積が半々で占められているという点)の写真に出ているのではないかな、と思っています。

私が羽田で水際に行きついた事とその構図についてこのように分析しましたが、5年後に考えは変わるかもしれないし、死ぬ間際には別の捉え方になっているかもしれません。

しかし作品を「言語化する」ということがひとつ前に進むことのように思え、今この文章を書いています。

この企画を進めて下さった湊雅博さん、写真について一緒に考えてくれた四人の写真家の方々
企画を快諾して下さった表参道画廊の里井さんには、この場を借りてお礼申し上げます。